第16話 〜記憶〜


 冬の名残がまだ活発に動き回る朝。住宅街を、1人の少年が駆け抜けていく。
「やばいなぁ〜……」
 ティオは腕時計に目をやった。始業時間まであと5分。住宅街を抜けて公園の並木道に入ったところで、走るスピードを上げた。
(何で自転車通学じゃダメなんだろう……今度もう一度父さんに頼んでみよう)
 冷たい噴水と誰も座っていないベンチと色の取れかかった遊具が、走り去る遅刻魔を無言で見送った。葉を一枚もつけていない並木の向こうに、見慣れた学校の建物が見えている。ティオはもう一度時刻を確かめた。あと少しで着く。何とか間に合いそうだ。
  リ−ン……
 突然、公園中に鈴の音が響いた。しかしティオはそれを空耳の名のもとに一蹴し、走り続けた。
  リ──ン………
 どこかでお目にかかった展開になりつつあることに気づき、止まろうと思ったがすぐ思い直して減速をやめた。5カ月前に卵を押しつけられたときは、音につられて立ち止まったから巻き込まれたんだ。もしかしたら、無視すれば二の舞を避けられるかもしれない。
  リ───ン…………
 3回目の音が遠ざかり聞こえなくなる頃に、ティオは並木道を抜けて道路を横切った。ヒマワリの花はどこにも見当たらない。
 チャイムの最初の音と同時に、閉まりかけた門を滑り込むようにくぐった。ワープと遅刻の両方を免れほっとした彼の頬に、冷たい物が触れた。
(よかった、今日は逃れられた……あれ? 雨が降るなんて言ってたっけ?)
 顔を上げた途端、世の中がそう甘くないことを思い知らされた。
 石畳で舗装された上り坂。両脇に並ぶ箱形の建物。ねずみ色の空から静かに降り注ぐ雨が、見たことのない町並みを淡くぼかしている。
「……ここは……どこだろう……」
 前にも言ったようなセリフが、薄暗い世界に吸い込まれていく。とりあえず坂を上ってみようか。同じような発想で片足をわずかに動かしかけたその時、突然ティオは何物かに腕をつかまれ、建物の間の細い路地裏に引きずり込まれた。
「静かに、落ち着いて……君に見てもらいたいものがあるんだ」
「……ルーク!?」
 いつもの黒マントをまとったルークが、外の通りを指差している。間もなくさっきまでティオがいた場所を、誰かが急ぎ足で通り過ぎていった。見覚えがあるようで、そうでもない感じもする。
(リゲル……? それにしては髪が短いような……)
「あれは2年半くらい前の彼だよ」
 ルークが言うと、肩に乗せたカラスがうなずいた。一方でティオは信じられないという顔をした。
「雨はもうすぐ止むから心配しないで。それより、君にはどうしても知って欲しいんだ。彼が君に語ろうとしない……だけどとっても大事な、彼の過去を」


 一輪の花が枯れると、隣で別の1輪が花開く。季節を問わずそうやって黄金色を保ち、面積を広げ続けるヒマワリの群れを、リゲルは小屋の屋根の上から見渡していた。
 この場所にはかつて大きな街があった。そこかしこに溢れた人々のにぎわいを、暖かさを、今でも時々思い出す。
(懐かしいな……あれから、もうどれくらい経ったんだ?)
 わけあって故郷を離れ、旅をしていた彼がその“街”に流れ着いたのは3年ほど前のこと。忘れもしない。あの日は、朝から雨が降っていた。


 『………………』
 土砂降りの雨の中、傘も持たずにひた走る少年が1人。石畳の上を行き交う人がいないから、自分の姿が人目に触れることもない。できれば誰とも関わらずに街を通り抜けたい彼にとって、この悪天候は好都合だった。
 前方に街を囲む城壁が見えてきた。門は開け放たれている。ここをくぐれば次の街まで、誰かと出会う確率はぐっと低くなる。必然的に、トラブルに巻き込まれる可能性も減ってくれるのだ。
(今日は運がいいな……あいつらに追いつかれる前にここを出て……隠れないと)
 そんなことを考えていた彼の足が、ふと止まった。
 一軒の家の窓が開け放たれ、そこから銀髪の少女が顔を出していた。手に持ったガラスの器で雨水を受け止めているらしい。
 深い青の瞳がこちらを向き、横に細くなってまた元に戻る。
『………………』
 何に心を奪われたのかも分からぬまま、立ち尽くす少年。一方で少女は一度窓の内側に引っ込み、少しして玄関から出てきた。
『よかったら……ここで雨宿りしていきませんか』


 「運命の出会い、とでも言うのかな。出来すぎてる気もするけど」
 ルークは2人が出逢ったときのことを少女の視点で話すと、空を見上げた。雨の勢いは弱まっている。
「居場所のないリゲルと、両親を亡くしたスピカ。気が合ったんだろうね。追っ手からかくまってあげて……雨が止んだら別れるはずだったのに、結局半年も同居してたんだ」
「どうしてルークがそんなこと知ってるの?」
 その場での回答は得られなかった。ティオは「なぜ追われていたのか」も気になったが、今はそれを考える時ではないらしい。ルークに腕を引かれた。
「スピカが出てきた……腕の中に何か見える?」
「何か持ってるのは分かるけど……」
 たどり着いた家の前で、息を切らして座り込むリゲルの姿が見える。おかしそうに笑うスピカは、見覚えのある箱を抱いていた。
「……あれ? もしかして、あの箱……」
「解った? チェリーもよく知ってると思うんだけど」
「みゅ? ……うみゅう!」
 箱の模様をどこで見たのか解ったチェリーは、嬉しそうに何度もうなずいた。彼女が普段ベッドとして使う箱。卵の中にいたときからずっと彼女を守ってきた、あの宝箱。そうとしか思えない。
「妖精を預かってる君なら箱も一緒に持ってると思ったんだけど、やっぱりそうだったね。……あれはもともとスピカの物。本当は彼女が、妖精の母親になるはずだったんだよ」
「……『はず』って事は……何かあって仕方なく……リゲルに預けたってこと?」
 そのリゲルは妖精を育てるための条件といわれる「鈴の音色を聞き分けられること」をどこかで知り、方々を探し回った末にティオの元に現れた。
 そんなことになるとも知らないだろう昔の彼は、いつもの皮肉めいた表情ではない、心の底からの笑顔を見せている。
(もしかしてリゲルは、スピカさんのこと好きだったのかな……)
 ティオの瞳に小さく映る白い手が、銀色の髪に軽く触れる。スピカは前髪を支える青い髪飾りをそっとなでてから、びしょ濡れのまま立っているリゲルを家に入れた。


 雨音が次第に遠ざかっていく。
『よかった、やっと晴れる……ここのところずっと雨続きだったから、何だか嬉しい』
 スピカはさっきから外ばかり見ている。いつになったら飽きるんだ? リゲルは聞きたくて仕方がなかったが、口をつぐんでいた。
 出逢ってからもうすぐ半年。行き場のなかった自分が拾われた日もこんな風に、外の景色を眺める彼女の後ろ姿を、ただ黙って見ていた覚えがある。
『ねえ、見て。星がきれい』
 雲の切れ目に夜空が見え始めた。スピカの一声で動いたリゲルは、窓を開けて外に身を乗り出した。限りなく黒に近い青の空に、無数の星と美しい満月が引っかかっている。
 一度窓を離れたスピカが、宝箱を抱えて戻ってきた。
『どんな子が生まれるのか分からないけど……いつか一緒に、この空を見るのかな……』
 近くの沢で拾ったというピンク色の卵を中から取り出し、月の光にさらす。まだ見ぬ新しい生命の姿を想像しているのか、ぼんやり空を眺めている内に、卵が手から滑り落ちてしまった。
『……あっ』
 割れる。
 スピカが手を差し伸べたが間に合わず、そのまま落下していった卵は、床と衝突する直前にピタリと止まった。そして紫色の淡い光に包まれ、ゆっくりと手元に戻ってきた。
『ありがとう……ごめんね、その力あんまり使いたくないって言ってたのに』
『別にいいんだ、これくらいなら』
 物を浮遊させる力を持つリゲルは、自分につきまとう数々の「非凡」をひどく嫌っている。でもそれが人助けになるなら話は別。特によく物を落とすスピカにとって、彼の能力は大いに役立っていた。
 そして、謝った後に必ず浮かべる、屈託のない笑顔。見てしまうと一切文句が言えなくなるのだった。


 「本当に大丈夫なのね? 本当に?」
 エーディンに向けて何度も念を押すクリスの手に、大きな灰色の封筒がある。中身は分厚い書類の束。しかも「最重要機密(トップシークレット)」の朱印を持つ物ばかりだ。
「本当に、もうしませんって謝ったの?」
「謝罪したわけではありませんが……もう興味はない、と」
 あっそう。クリスは舌打ちしてから部下に背を向けた。
 忘れもしない。カラスを連れた少年がこの部屋に忍び込み、今自分が持っているこの封筒を盗み出そうとした。誰の命令でやったことなのか。少年は一体何者なのか。そういった疑問が解けないまま──既に2年の時が経とうとしている。
 深く一礼して出ていくエーディンを、ミディールは扉のそばで沈黙したまま見送った。背中の羽は引っ込めている。謹慎期間を終えた彼はただ主人の命令を受け、実行する立場でしかない。泥棒の目的に心当たりはあっても、言い出すことはできなかった。
 彼もまた、思い当たる「事件」を回想し始めた。


 「灯火の卵を奪取せよ」
 それはミディールにとって、初の陣頭指揮という記念すべき任務であった。
 満月が空の中央まで昇った頃。高い城壁に守られた街を、おびただしい数の魔物が包囲していた。ほとんどは大佐(クリス)の家に伝わる魔術で作られた、感情のかけらも持たない人形である。
 城壁の上に立ったミディールが剣をかざすと、彼に率いられた部下達は一斉に壁を越えて中に侵入した。無駄な殺生はするなと指示されている彼らは寝静まった人間を襲うことはせず、静寂に溶け込んだまま路地裏を駆け抜ける。
 東の門に近い一角の住民が目を覚ましていれば、月光を背に舞う揚羽蝶の姿が見えたことだろう。蝶の方は地上を見下ろし、時々こちらを振り返りながら逃げる2人を目で追っていた。
『分かっているな。やれ』
 路上を這う生き物の群れに指示を出すと、すぐさま追いかけっこが始まった。相手は命がけ。こちらは量産型の兵士、多少の犠牲者は大したダメージにならない。勝敗は決まったも同然だった。
 並んで走る2人に先頭の部下が追いついた。片方──選ばれた娘じゃない、その同居人の方か──が立ち止まり振り返る。と、その目が光ったように見えた。
(エーディンが言ってたな……あの男には確か特殊能力が)
 兵士が次々と、巨大な手に押しつぶされるように地面に伏していく。ミディールは娘の捕獲に専念するよう指示してから、出発前に渡された調査書を懐から取り出した。
(……「重力及び反重力の制御能力を有する」。やはりそうか……「備考」?)
 隅の走り書きに目を通そうとしたその時、部下から標的を追い詰めたという連絡が入った。


 ティオは自分の記憶が混乱していることをはっきり自覚した。会話は全く聞こえなかったが、平穏な日常を敵がぶち壊したことは理解できた。そして今が夜だということも。しかし一連の出来事の中に、自分をここへ連れてきたルークの真意は見えてこない。
「これからが本題だよ」
 ルークは口を開くと同時に、側に置かれたはしごを登り始めた。手招きに応じてティオも登ってみると、ある家の屋根の上に着いた。
「僕はもともとこの辺りに住んでたんだ。スピカのことは彼女が親を亡くす前から知ってる。そしてあの時……僕は実際にここにいた。ここなら全部見えるよ。今も続いてる対立と憎しみ、それと敵が用意してる『切り札』……その始まりが、全部」
 石の屋根から滑り落ちないようそっと立ち上がると、ティオの頬に吹き付ける冷たい風が熱気へと変わった。その理由を先に見つけたのはチェリーだった。
「みてみて、ひかってる!」
「光ってる、じゃなくて……あれは『燃えてる』って言うんだよ」
 言葉を教えている場合ではない。誰の仕業か、50メートルくらい先にある家から火の手が上がっている。
 燃えさかる炎の中に飛び込んだ揚羽蝶が再び上昇した。その腕に抱えられた銀髪の少女は、どうやら気を失っているらしい。
 叫び声が聞こえる。リゲルがスピカに呼びかける声。しかしそれも、燃える家が崩れ落ちた直後に途切れてしまった。
「えっ……ま、まさか今、下敷きになって……」
「多分そうだろうね」
 ルークは青ざめるティオの肩に手を置いた。
「そろそろ来るよ」
「?」
「みゅ!?」
 何かを感じ取ったチェリーがティオの肩にしがみついた。そして──

 聞いた者の背筋を凍らせる、野獣の雄叫び。

 揺れ始める大地。

「───!?」
 2人の子供と妖精、カラスを乗せた家が突然崩壊した。
 ティオは落下する直前の一瞬、スピカを連れて逃げる蝶の足元あたりから、小さな輝きがこぼれ落ちるのを見たような気がした。
 全てが崩れ去る。炎の彩りが広がる。地獄絵図の中に、意識が埋もれていく。



 目を覚ましたティオは、何故か自分の部屋にいた。
 起き上がると背中が痛かった。どうやら眠っている間にベッドから転げ落ちたらしい。チェリーは机の上に置いた宝箱の中で、何枚も重ねたハンカチにくるまって熟睡している。
(今の、全部……夢?)
 やけにリアルな夢だった。
 時計の針は午前5時を指している。ティオはしばらく寝ぼけまなこでその場に座っていたが、ここでまた寝てしまうと遅刻は確実だと思ったので、もう起きることにした。
 制服に着替えるのを後回しにして階段を下りると、突然電話が鳴った。こんな時間に誰だろうと思ったら、ルークだった。
『どうだった? さっきの夢』
 ルークは言葉の意味を理解できていない様子のティオに説明した。
『グランマに手伝ってもらって、僕の記憶を夢として君に見せたんだ。つまり、あれはほとんど全部本当のこと。不確かなところもあるけど。……でも、肝心なところで目を覚ましちゃったみたいだね』
「肝心な……それって、あの夢にはまだ続きがあるって事?」
『そう。2日連続で術を使うのは危ないらしいから、そのうち話すよ』
「今日、学校に行ってからとか?」
『あー……今日はダメ。学校休むから。ついでに先生に伝えといてくれると助かる』
 用事はそれだけなのか、あっさり電話を切られた。今この場で全てを語る気にはなれないらしい。
「夢……やっぱり何が言いたいんだか分からない……」
 ティオの頭の上に座ったチェリーは「ゆめ」が何のことか思い出せず、腕を組んで考え込んでいた。ポーズ自体は誰かの真似。頭の中身はまだ幼く、説明の難しい概念を結局理解できなかった。


 数え切れない花が、風に触れて一斉に揺れた。山の向こうが白く染まり、長い夜の終わりを告げ知らせる。
 リゲルはいつの間にか屋根の上で眠っていたことに気がついた。回想の中でも一度だけ、意識が途切れた部分がある。
(同じだな……あの時も確か、こんな感じの夜明けだった)
 2年前──自分は確かに炎に飲み込まれた。熱風の中に、敵に連れ去られるスピカの姿が見えた。その時、卵はまだ彼女の手の中にあった。完全な敗北。そして迫り来る死を悟った。
 しかし、どういうわけか再び目を覚ました。朝日が照らし出したのはどこまでも続く焦土。跡形もなく滅び去った街と、瓦礫の上に転がった箱だった。スピカがいつそれを手放したのかは分からなかったが、とにかく卵は無事だった。
 地震があったことを後から知った。一握りの生存者と共に一度は被災地を離れたが、結局自分だけ戻ってきてしまった。
(今の俺に何ができる……せめてお前がどこにいるか分かれば……)
 土に刺さっていた彼女の髪飾りを見つけたとき、引き抜いた後のくぼみにヒマワリの種を埋めた。彼女が以前、好きだと話していた花。たった一粒が、半年後には街があった場所を覆い尽くす勢いで増え続けていた。
 そして、今の彼がある。
(これ以上考えない方がいいな、余計つらくなる。……他のことをしよう。よし、散歩にでも行くか)
 思いついた行き先は、山を1つ越えた先の滝。スピカが卵を見つけ、彼自身は金色の鈴を拾った場所。鈴が果たした役割を考えると、その滝こそが全ての始まりと言えるだろう。
 いつかティオにも見せてやろう。
 屋根から飛び降り着地した彼の表情から、暗さが消えた。


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