第17話 〜声〜


 「てぃお、よんだ?」
 金曜の夜。
 家中に充満した静寂を吹き飛ばしたチェリーの一言は、ティオを大いに困惑させた。呼んだ覚えはない。それどころか全く口を開いていない。それなのに彼女は、誰かが自分のことを呼んでいると言ってきかないのだ。
「僕には聞こえなかったよ、何も。気のせいだよ」
 不思議な力を持つ妖精のことだから、ただの空耳ではないのかもしれない。しかし、あまり深く考える時間はなかった。突然の呼び出し音に促され、ティオは夕食の支度を中断して電話に出た。
 受話器越しに届いたのはジーノの声だった。
『……というわけで、一緒に見に行こうって話。どう、明日は暇?』
「残念だけど、予定が入ってるんだ」
 親友のデートを冷やかしに行く気にはなれない。ティオは当事者の気持ちを尊重しつつ、ジーノの機嫌も損ねないように断った。
『そりゃ残念。面白いと思ったんだけど、忙しいならしょうがないか』
「みゅう〜っ!!」
『……それにしても、さっきからそっち、うるさくない?』
 台所から居間へ、そして玄関を回って廊下を往復。涙目のチェリーが家中を猛スピードで飛び回っている。彼女は叫びながらティオの頭上を通過し、すぐに急反転して泣きついてきた。
「みゅうー、みゅう──っ……」
「チェリーがまた何かやらかしたみたい。……もう切るよ」
 そっけない態度を保ったまま電話を切ったティオは、胸にしがみつくチェリーを引き剥がした。彼女の真っ赤な舌と、台所周辺に漂うカレーの匂いが全てを物語っている。
「つまみ食いはダメだって何度も言ったじゃないか」
「うみゅ……ごめんなさぁい……」
「今度からは絶対しない。約束。チェリーにはちゃんと甘口を作ったから、ほら、水飲んで落ち着こう?」
 空耳を気にする暇はない。ティオの前には親代わりとしての責務が山積している。


 翌日。
 とっくに気づかれているとも知らずレイを尾行していたジーノと仲間達は、突然現れた黒い車に進路を妨害された。
「あっ、畜生……いなくなった」
 車が去った後、そこにはソフィアの姿があった。駅前でベルを乗せ、さらにレイを拾った車が走り去るのを見送った彼女は、車と反対の方向に歩き始めた。
「折角だから追ってみます? アイツの正体、突き止めるチャンスですよ」
「……いや、やめといた方がいい。見つかったら何されるか……」
 珍しく弱気な口振りのジーノだったが、結局は興味が恐怖を上回り、さっきより距離を置いて彼女の後をつけ始めた。
 ソフィアは駅前まで続く大通りに出て、車道の反対側へ渡った。ちょっとした探偵気取りのジーノは歩行者用信号に行く手を阻まれたが、その程度であきらめる彼ではない。車の流れに平行して歩き、彼女が雑居ビルの1つに入っていくのを見届けた。
「まさかあそこに住んでるなんて事はないよな……」
「ジーノさん、あれ、見てください」
 後ろから軽く方をつついてきたバートが、別の方向にある何かを指している。見ると、オープンカフェの一番外側の席に見知った顔があった。
「何であんな所にジュンが……ん? 隣にいる奴、どっかで見たような……」


 土曜日には次の1週間に必要なものを買いに行く。ティオは母親から受け継いだ習慣に従い、この日も商店街に来ていた。
「分かったから……そこに入っててもいいけど、食べちゃダメだよ」
「は──い」
 買い出しを終えて帰宅する途中、チェリーは何度も食材の袋に潜り込もうとした。彼女は甘い物に目がない。果物の香りに吸い寄せられていることを分かっているティオは、止めても無駄と考えたので好きにさせた。
「みゅう〜……」
 まだまだ幼い妖精はバナナを抱き枕にして寝転がり、至福の表情を浮かべている。ティオはその様子に半分呆れながらも、可愛いと思ってしまう自分に気がついた。
(こう言うのを親バカって言うのかな……)
 視線を正面に戻して歩き始める。重くなった袋2つを支える手が痛くなってきたが、それも家に着くまでの辛抱と自分に言い聞かせ、角を1つ曲がった。
 次の瞬間、ティオは自分の目を疑った。
「あれ? ……おかしいな」
 そこはさっき通ったはずの場所だった。
 ティオは学校の成績こそ良い方ではないが、歩き慣れた道を今さら間違えるほど頭が悪いわけではない。振り返ってみても特におかしい点は見当たらなかったので、もう一度同じ道順をたどり始めた。
 すると今度は別の曲がり角の先が、全く違う場所につながっていた。
「これも……敵の仕業、なのかな……?」
 すぐにそう思ったが、おかしなことに指輪は反応を示さない。チェリーが嫌な空気を感じて騒ぎ出すこともなかった。
(誰がやったかはこの際どうでもいい、それより……どうやったら帰れるんだろう)
 ティオが歩けば歩くほど、目指す家から遠ざかってしまう。それに気づいたとき、彼は全く知らない場所に迷い込んでいた。


 ベルを心配して駅まで様子を見に行ったジュンは、帰り道に雑踏の中で見かけた女性に思わず声をかけていた。明るいオレンジの髪は、その人を識別する目印として十分すぎる。
「あなた、どこかで……会ったわね! 思い出した、あの時の……」
 クリスマスイブ以来の再会に驚いたダイアナは、追っ手が近くにいないことを確かめてから、一緒にいた30代くらいの男に何か言った。一言ずつのやりとりの後に結論が出た。
「もし時間があれば、折角だから一緒にお茶でもどう?」
「えっ、いいんですか……でも……」
「いいのよ、色々教えて欲しいこともあるし。大丈夫、“あの人達”とはとっくに縁切ってるから」
 今日は特に用事もないし、出かけた家族は夜まで帰らない。自身もダイアナに聞いてみたいことがあるジュンは、あっさり彼女についていくことを決めた。
 大通り沿いに店を構えるカフェに来た3人は、屋外に置かれた丸テーブルの1つを囲んで座った。やがてジュンとダイアナの前に、注文したフレーバーティーが運ばれてきた。
「わぁ、いい香り……」
「飲んでみて、味もいいから。ヨースケは何も頼まないの?」
 ダイアナは感激したジュンに微笑みかけた後、ここに来ることを提案した男に尋ねた。ヨースケは「別にいい」と答え、足下に置いたショルダーバッグを開けて中からスケッチブックを取り出した。
「自由に喋ってていいよ。俺はこれから仕事するから」
「仕事……?」
 不思議がるジュンの前に店のメニューが差し出された。
「今日は彼におごってもらうから。ケーキでも頼む?」
 軽くウインクしたダイアナは顔を上げてウエイターを呼び、追加の注文を住ませると、ジュンの方に向き直って近況を尋ねた。その横でヨースケは紙の上に鉛筆を走らせ始めた。
 ジーノ達が遠くから様子をうかがっていることには、もちろん3人とも気づいていない。


 その頃、ティオは直感だけを頼りに歩いていた。記憶も方向感覚も当てにならない。しかも両手の荷物が、迷い始めたときに比べて重くなっている気がする。
 すれ違う人は少ない。どうもこの現象を仕掛けた人物は、特に人気(ひとけ)のない道を選んでティオに歩かせているらしい。その証拠に、何度も同じ門の前を通っている。
(そういえば、これ誰の家なんだろう……)
 ふと立ち止まって、鍵穴から中をのぞいてみた。立派な門にふさわしい大きな家を中心に、手入れの行き届いた庭が広がっている。人影は見当たらない。中に入ろうとは思っていないから、しばらく眺めてからまた歩き出した。すると、
「……みゅう?」
 袋の中に入っていたチェリーが、突然飛び出してきた。驚くティオには見向きもせず、誰かを捜すようにきょろきょろ首を動かしている。いくら見回しても誰もいないので、チェリーは肩を落とした。
「みゅ……みゅう……」
「どうしたんだよ、いきなり……何かあったの?」
「ちぇりー、よんでるの。おいで、こっちへおいでって」
 今度の空耳は、チェリーにははっきり聞こえたらしい。ティオや学校の友達ではない、全く知らない人の声だが、なんとなくどこかで聞いたような気もすると言う。
「わかんないけど、いいひと。やさしいこえなの……みゅ!」
 またも声が聞こえたのだろう、チェリーは何かに吸い寄せられるように、勝手に前へ進み始めた。ここではぐれたら大変なことになる。ティオは仕方なく追いかけた。


 「表情が硬いな。気持ちは分かるけど、もっとリラックスして」
 そう言って苦笑するヨースケの前で、ジュンは余計に縮こまってしまった。彼が画家で、自分のことを描こうとしていると知ったのだから無理もない。
 しかしその緊張も、程なく運ばれてきたチーズケーキによっていくらか和らいだ。 「おいしい」と笑うジュン、そして隣でフルーツタルトを受け取ったダイアナの姿が、白い紙の上に再現されていく。話が進むにつれてうち解け、電話番号とメールアドレスの交換までした2人は、絵の中と違って表情がくるくる変わる。
「……こんな感じかな」
 ケーキの皿が空になる頃、鉛筆を置いたヨースケが完成したスケッチを見せてくれた。ジュンは目を輝かせ、多少の美化が含まれた自分の肖像を眺めた。続いてそれをダイアナに見せようとしたその時。
 すぐ近くで聞こえた罵声が、カフェの客と店員を1人残らず硬直させた。
「昼間から何の騒ぎ? ……まあ。どうせろくな事じゃないでしょうけど」
 ダイアナは腰を浮かしかけたが、そうしなくても「騒ぎ」は見えた。大柄な男達が、子供の集団を問い詰めている。
「あれ……もしかしてジーノ……?」
「君の知り合い? それじゃ放っておけないな」
 ヨースケは柵の外に目を向け、黒い背広姿の大人を注視しながら、右手をダイアナの方に差し出した。
「携帯貸して。すぐ返すからさ」
 そしてすぐにどこかの番号へ電話をかけた。意図が読めないジュンは首をかしげ、もう一度ジーノ達の方を見た。しきりに首を横に振っているように見える。


 慣れた道を進むように行くチェリーと、その予測不可能な動きを追うティオ。似たような状況は以前にもあったが、その時に比べて迷いが少ない。
「てぃお──、はやく──」
 チェリーは時々前進をやめて振り返り、さらに重くなった袋を提げて歩くティオを待つ余裕さえある。彼の視線の高さをふわふわ漂い、無邪気に笑う姿はいつもと変わらない。しかし、断続的に聞こえるという声に急かされるとあっさり先へ進んでしまう。そこからはどこか違う印象も感じられた。
「ちょっと待って、はぐれたらどうするんだよ。チェリーはいいかもしれないけど、僕が……」
 見るからに疲れ切った様子のティオが、立ち止まって袋を地面に置いた。重圧から解放された両手に赤い線が刻まれている。
「みゅう?」
「……チェリー、さっきからずっと勝手に進んでるけど……道、分かるの?」
「わかんない。でもね、こっちなの」
 そう言った後、チェリーはまた先へ進み始めた。本人さえよく分かっていない直感に頼っていいのか。ティオは少し不安になったが、気ままに浮遊する妖精を止める方法が分からない。
(また置いてかれる、何とかしてこっちに引き寄せないと……そうだ、食べ物で釣ってみよう)
 先程のバナナを引っ張り出すと、チェリーはすぐに戻ってきた。ティオの手からしびれが消えた頃にちょうどチェリーもバナナを食べ終わり、探検(?)を再開した。


 無数の燭台の灯によって、暗闇の中に黄金の玉座が浮かび上がる。東西の山々から風が吹き込むこの地は天気が崩れやすく、窓の外で時々閃光が見える。
「説明はそれで終わりか?」
 玉座の主が退屈そうな顔で言った。足元にある階段の最下段に立つ男は深くうなずき、退出を申し出て認められると、闇に姿を溶け込ませてその気配を一瞬で消した。彼の後ろに控えていた、深緑の軍服をまとう男と主の目が合う。
 ──何が言いたい?
 ──何も言いたくない。
 無言の会話の後、クリスは会談の上の若者に背を向け、足早に部屋を出ていった。
 背後で鋼鉄の扉が閉じられるとすぐ、深いため息をついた。
「ホント、人って自分勝手よねぇ……」
 父親が述べていた行動計画に、本当は賛成などしたくなかった。明らかな矛盾はなくても、わずかな隙をつかれるだけで崩れる可能性があることくらい、よく考えれば誰にも分かる。そんな穴だらけのプランを、クリスの父親で上官でもある将軍は実行に移そうとしていた。
(殿下の……じゃないわね、あの方のご意向とは言っても……焦りすぎても失敗するだけなのに)
 クリスは自室へ戻る途中、城の主にどう「実行」を思いとどまらせるか考えていた。
(アタシが何とかするしかない。人の提案のいいところだけ横取りする人なんかに、リスクがどれだけ大きいかなんて分かるわけないのよ、絶対!)
 自分がかつてその立場にあったことなど既に頭になかった。


 最近、どうも自分の立場が弱くなった気がする。ジーノがここ3カ月ほど抱き続けていた不安は今、確信に変わろうとしていた。
「鍵を受け取っただろう。渡せ」
 黒ずくめの屈強な男がナイフを突きつけた。確かにジーノは鍵を手に握っている。クローバー型のキーホルダーが付いたそれは、建物から出てきたソフィアが彼の横をすり抜けた際、「絶対手放さないで」とささやいて託した物だった。
(どうしよう、渡さなかったら殺される。でも、渡したら……)
 予測できない行動をとる彼女を何より恐れるジーノが、一方的とはいえ交わされた約束を破れるはずがない。
 次の一手に迷っていると、背後で足音が遠ざかり始めた。彼の友達が1人残らずいなくなる音だった。ソフィアを追って現れた男達は弱気な子供の群れには目もくれず、唯一動けないでいるジーノを状況的にも精神的にも追い詰めた。
 後ろは垣根。後ずさりできない。
(もうダメだ、殺される……ソフィアのせいだ! あいつがいなけりゃこんなことには……)
 その時、力強い声が悲観を断ち切った。
「こっちだ、その鍵を投げろ!」
 ナイフを持ったリーダー格は刃先をジーノの喉元に向けたまま、声がした方を見た。異様な光景に凍りつく通行人に紛れ、不敵な笑みをたたえた少年が1人。片手で拳銃らしき物を構えている。
(……レナード先輩!? どうしてここに……まあいいや、助かるかも!!)
 ジーノの顔に明るさが戻った。彼はこれでも野球部のピッチャー。慣れたフォームで投げた鍵は男達の脇を通り越し、真っ直ぐレナードの左手に届いた。
「あっ、そうだ、それはさっきソフィアが……!」
「話は本人から聞いた。ここは俺が何とかする、お前は早く逃げろ!」
 謎の黒服集団は鍵を奪い返すことしか頭にないらしい。無我夢中で逃げ出したジーノの存在は既に思考の外にある。力ずくで押さえつけるつもりか、レナードに掴みかかろうとした。
「大丈夫なのかな……」
 後方から見守るしかないジュンの口から、不安がこぼれる。気持ちは彼に届いただろうか。
「全然ひるんでねえ……か。そうでなくちゃ面白くねえよな」
 レナードは銃を後方に投げ捨て、期待通りの音を耳で確かめた。次いで近づいてくる敵をかわし、隙を見せた急所に軽い一撃を加えて次々と沈めていった。
 最後の1人になったことを確かめてから右足を1歩分後ろに下げ、上半身をやや前傾させる。そして敵を至近距離まで引きつけたところで突然体を起こし、そのまま重心を後方へ移動させた。
「──────!!」
 鈍い衝撃音。
 直後、リーダーが手放されたナイフと共に宙を舞った。振り上げられた右足に蹴り飛ばされたのだ。そのまま打ち上げ花火のような垂直の軌道を描き、仰向けの状態で地面に叩きつけられる間に、レナードは勢いに乗せたバック転から着地を決めていた。
「うわー、容赦ないなー……」
 ヨースケのつぶやきに含まれた深い意味を、ジュンはなんとなくだが感じ取った。


 「こっちだよ、こっち」
 チェリーがティオを急かす回数が増えてきた。周囲の景色が一変することには慣れてきたティオだが、未だに自分がどこを歩いているのかを把握できないでいた。
 ところが、思いがけない人物に出会ったことで目が覚めた。
「こんにちは。……どうかしましたか?」
「サマンサ先輩……」
 来たことはないはずの場所だが、聞いた覚えがある。サマンサが今出てきたのが彼女の自宅だとしたら、それはティオの家からそう遠くない。
(もしかして……もしかしたら)
 道に迷っていることを伏せたまま別れ、再びチェリーの先導で歩き始めた。見覚えのある道の断片が続く。図書館に行くと言っていたサマンサともう一度会ったとき、ティオは予想の正しさを確かめた。
(間違いない、少しずつだけど、家に近づいてきてる!)
「うみゅ──……んー……こっち!」
 十字路の真ん中で立ち止まったチェリーは、少し悩んでから左に曲がった。
 ティオが体の向きを変えると同時に瞬間移動が起こる。すり替わった町並みは、通い慣れた通学路の記憶と重なった。
「チェリー、次はどっちに行けばいい?」
「こっち! ……みてみて、てぃお、あれ……」
 質問の答えとして指し示されたのが、最後の曲がり角だった。数時間離れていただけの家が、何だか懐かしく思える。一安心したティオは我が家の前に着いたところで、庭に誰かがいることに気づいた。
「……誰!?」
 その体は光り輝いている。年齢も性別も顔立ちも判別できないほど、まぶしい。しかも口から発せられる言葉ではなく、心に直接響く「声」で話しかけてきた。
『君にはすまないことをした……許して欲しい。どうしても、妖精の力を試したかったんだ』
(力を……試す?)
 ティオはその辺をふわふわ漂っているチェリーを見た。彼女はうつろな目で「その人」を見ている。どうしたんだろう。話しかけようとすると、また声が聞こえた。
『妖精はもう1人で飛べる。本来の役目を思い出すべき時が近づいているのだ……その時が来るまで、どうか見守っていて……』
 声と光が同時にフェードアウトし、完全に消え去る頃にティオの持つ袋が突然軽くなった。
 何もかもが元通り。残ったのは新たな謎と、何故か上機嫌のチェリーだけだった。


 「解決したんだからそれでいいじゃないか……ねぇ?」
 ヨースケは両手を上げ、降参の意志を示している。しかし眉間に向けられた銃口がそれる気配はない。
「確かに……気持ちは分かるよ、寝てるところを起こされたんだから……でも」
「言い訳はもういい。今すぐここから消えろ」
 引き金に指をかけたレナードの言葉は冷たかった。止めに入れないジュンの前で口論が続いた後、
   パァン……
「………………」
 やや間の抜けた破裂音がした。
 ヨースケの額に、小さな旗をつけた吸盤が貼りつく。
「……何だ、本物じゃなかったのか。てっきり義兄(にい)さんの所から持ちだしたものと……」
「そりゃ親父は大量に隠し持ってるけどな、あんな物騒なもん持ち出せるわけねえだろ」
「確かに……」
 腹にため込んだ空気を一気に吐き出したヨースケは、広げたままのスケッチブックを閉じてショルダーバッグに戻した。そしてジュンに言った。
「この絵に色つけて、後でレナードに頼んで届けさせるから。楽しみに待ってて」
「届け……させる? 先輩に?」
「同じ学校って聞いたから。姉貴に──つまりアイツの母親に、協力してもらって説き伏せるつもり」
 そのレナードがソフィアと何か話していて、ダイアナは追っ手に見つかりはしないかとびくびくしながら、途切れ途切れの会話を聞いている。
 守り抜いた物が何の鍵なのかは3人とも知らない。ただソフィアはそれを敵と遭遇したときに拾ったと言うから、レナードに蹴散らされ逃げ出した集団も敵の関係者だろう。
(鍵がもしクリスの物だとしたら……やっぱり私に隠れてこそこそと……)
 そこまで考えて、ダイアナの頭の中に別の疑念が現れた。
(待って、もしかして……何も知らないのは私だけ?)
 本名を伏せ「あの方」とだけ呼ばれる存在に、ただ忠誠を誓うこと。孤児だった自分が拾われた際に命じられたことを思い出す。本当に大切なことを知らないまま踊らされた過去。
 そして今も。鍵に隠されているかもしれない真実を、かけらも見いだせないでいる。


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