第18話 〜絆〜


 抜けるような青空と、賑やかな通学路。
 その中に呆然と立つ生徒会長がいる。
「あれ……サマンサ、お前どうしたんだ、こんな所で……」
 やって来たレナードが驚いたのはごく自然な反応だった。
 今、サマンサは眼鏡をかけていない。フレームだけが手の中にあって、レンズは地面に落ちて割れていた。
「……ご覧の通りです。何だか、こう……不吉な感じがしますわね」
「朝からとんだ災難だったな。で? どうすんだ、今日一日」
「予備を家に置き忘れてしまったので、今日は眼鏡無しで何とかします。……わたくしとしたことがうかつでした、でもご心配なく」
 サマンサは普通に歩き出した。あるはずの物が無い違和感は大きい。特別に美人というわけではないが、硬いイメージを取り払った素顔には優しさと可愛らしさが感じられた。
 しかし、何か大事なことを忘れているような気がする。
「……やっぱり待て! お前の視力は確か……あ……」
 極度の近視と乱視を抱えるサマンサが、周囲の障害物を全てよけきれるとは思えない。それに気づいたレナードの前で彼女は何とか電柱を避けたが、数歩後には段差を踏み外して転倒していた。
「ほら、手ぇ貸せ。1人で行くなんて無茶だ」
「結構です。わたくしにはお構いなく、どうぞお先へ」
 立ち上がった生徒会長はヤケになっているようだった。余計心配になった副会長が見守るようについて歩いていると、案の定、彼女は路面に張った氷の上でよろけた。すぐに後ろから支えられたので転ぶことはなかったが、彼女は急に近づいたレナードの顔を見るなり頬を赤らめ、
「……来ないでっ……!」
 口より先に彼を突き飛ばした。
 地面に頭を強打したレナードが痛みを引きずりつつ体を起こすと、逃げるように遠ざかるサマンサの後ろ姿が見えた。


 抜けるような青空と、嵐の前触れのような静けさ。
 レイが静かに言い放つ。
「もう君とは絶交だ」
 教室中に、言葉にならない驚きが広がった。皆が息を呑んで見つめる中、ティオは何も言わず全員に背を向けた。
 少し遅れて教室に現れたルークは沈んだ空気を察知し、ジーノを捕まえて何があったのかと尋ねた。
「見ての通り」
 ジーノは肩をすくめた。
「あの2人、珍しく大喧嘩したんだ。どうせ原因はくだらないことだろうけど、気がついたらエスカレートしてて……おしまいには絶交だってさ」
「それでどっちも暗い顔してるのか。でも勢いで言ったことなら、ほとぼりが冷めれば……」
「仲直りすると思うよ。よくあることだし」
 誰もがそう思っていた。しかし大方の予想に反し、両者とも和解を求める素振りを見せなかった。事態の深刻さはチェリーを見るとよく分かる。朝まで仲良しだった2人が急に距離を置いたことに戸惑い、寂しさを紛らすためかティオにべったりとくっついて離れなかった。


 その日の放課後。レイは部活へ行き、ティオは帰り支度をしている。
「ねえ、何かおかしいと思わない!?」
 暇になったチェリーが教室をふらふら漂っていると、ジュンの声が聞こえた。友達のベルとナターシャを相手に何か話している。
「お互い口きかないっていうのは分かるのよ。みんなの前であんなこと言っちゃったし、気まずいんだと思う。でも、いくら怒ってるからって……」
「うみゅう……じゅん、こわい……」
 チェリーは剣幕に負けてベルの背中に隠れた。それを見たジュンは慌てて弁解した。
「ごめん、怖い顔してた? 別にチェリーちゃんのこと怒ってるわけじゃないから。何も悪いコトしてないよ、大丈夫。ただ……ティオはともかく、レイの様子がおかしいって話をしてたの」
 レイがティオを避けて歩くのは仕方ない。しかし彼はそれに加え、他の友達とも会話しようとしなかったらしい。冷たく突き放されたというベルの落ち込みようは、今までになくひどいものだった。
「はーい! きいてきいて!」
 チェリーが何かを思いだしたのか真っ直ぐ手を挙げ、ジュンに発言の許可を求めた。
「どうしたの、チェリー? ティオが何か言ってた?」
「ううん、あのね、さっきね……れいのおめめにね、おうまさんがいたの」
「……お馬さん?」
 想像の範囲外にある言葉に、3人は揃って聞き返した。ジュンとナターシャは顔を見合わせ、沈んでいたベルも首をかしげる。
「どんなお馬さんだったんですか? もう少し詳しく教えていただけないでしょうか」
「いいよ。えっと、まっくろいおうまさん。おめめのなかにいたの。ちょっとだけちぇりーのことみてね、そいでね、ぱーってきえちゃった
 チェリーは「ぱーって」の所で大きく両腕を広げ、大げさにアピールしてみせた。まさか本物が出てきたとは思えないし、反射した光と影の形がそう見えたのかもしれない。とにかく面白い発見にはしゃいでいる。
 そこへティオが現れ、「もう帰るよ」と言って妖精の襟首をつまんだ。
「急いでるの?」
「大事な用がある……ような気がするんだ」
 ナターシャの問いかけに、ひどく曖昧な答えが返ってきた。1日中クラスを取り巻いていたおかしな空気に毒されなかったのは、無邪気に笑うチェリーだけのようだ。


 その頃、リゲルは自宅に現れた意外な客人に戸惑っていた。
「……お前、学校は?」
「いいんだ。大事な用事を先送りにはできないから」
 午後の授業をさぼってここに来たというルークはアマーロを抱いたまま、1脚しかない椅子に腰を下ろした。
 狭い丸太小屋の中で向き合う2人の間には、冷たい空気とホットミルクの湯気だけがある。
「いきなりだけど、本題入っていいかな」
「いいに決まってるだろ。何の用だ」
「彼女をさらった奴の居場所、知りたい?」
 リゲルの表情が一瞬で凍りついた。ルークは狙い通りと言わんばかりに薄笑いを浮かべ、話を続けた。
「僕があの人達のアジトに忍び込んだのが2年前。その時は敵の兵士に紛れてワープゲートを通ったから、地理的な位置は分からなかったんだ」
「……それをようやく突き止めたってことか。どこなんだ?」
「まあまあ、焦るのは分かるけど落ち着いて、聞いて。王族の人が所有してる別荘なんだけど、そこら中に罠が仕掛けてあるんだ。多分1人で、何の準備もしないで突破するのは無理だと思う」
「そうだろうな……VIPが出入りするところだったら……」
「そこで提案。一緒に行かない?」
 ルークは程良く冷めたホットミルクを飲み干すと、マントの中から丸めた紙を引っ張りだした。広げられた地図の、山に囲まれた1点が赤の2重丸に囲まれている。
「ここがそのアジト。結界に守られてるっていう話だけど、抜け道見つけたから大丈夫。……実は、僕もしなくちゃいけないことがあるから行くんだけど、一緒に来てくれると心強いかな……って」
 言葉の続きを聞くまでもなく、リゲルは結論を出していた。スピカを助けに行ける絶好の機会を逃すわけにはいかない。迷わず言った。
「それで、いつそこへ行くんだ?」


 翌朝。始業1分前に登校したティオは、自分の目と耳を本気で疑った。
 とげとげしい声の応酬。クラスが真っ二つに分裂し、激しい議論を戦わせている。よく見ると彼らは決して団結しているわけではなかった。仲がいいはずの人同士が互いに相手をののしっているのだ。
 教室の入口で縮こまっていたベルが、事情を教えてくれた。
「最初はジーノさん達が口論を始めて……次第に他の人も巻き込んで、気がついたらこんなことに」
「みんな、おこってる? どして?」
 鞄から飛び出したチェリーは、いつもと違う形の騒がしさに耐えきれず耳をふさいだ。既に本来の論点を外れどうでもいいことで争う、そんな“論争”は他のクラスにも飛び火しているようだった。何とか騒ぎを鎮めようとしている先生の奮闘も聞こえてくる。
「どうなってるんだ、一体……まさかとは思うけど、これも敵の罠なんてことは……」
「もしそうなのでしたら……いったい何のために」
「分からない。レイが僕やベルに冷たくするのとも、チェリーの事とも関係なさそうだし」
 どっちにしても、謝って仲直りしないといけない。一晩考えて心に決めていたティオはまずレイを探したが、見つからなかった。
 くだらない言い争いに割って入る気はないし、加わろうとも思わない。だったら何をしよう。考えていると、チェリーに髪を引っ張られた。
「何だよ、いきなり……」
「れい、あっち」
 ティオが制止する間もなく、チェリーは廊下の先にあるどこかを目指して進んでいた。彼女を追いかけると必ず事件の原因に行き着いてきたから、今回も期待していいだろう。ティオは走り出した。
 チェリーは廊下の途中で曲がった。階段を使うらしい。
「待ってよ、勝手に先へ行かないで……」
 しかし、彼だけが先へ進めなかった。
「レイ……どうしたんだよ、その格好!?」
 待ち構えていた親友は漆黒の鎧を身にまとい、リゲルから譲られた剣をティオに向けていた。チェリーの姿はない。おそらく先へ行ってしまったのだろう。
 ティオが一歩下がると同時に、刃先が動いた。前髪の先端が切り取られて宙を舞った。


 闘争の空気はあっという間に広がり、生徒達がすさまじい怒りのぶつけ合いを始めたため、学校全体が学校としての役割を果たせなくなっていた。当初は手分けして彼らを鎮めようとしていた先生もまた行動方針をめぐって対立し、結局生徒と同じ道をたどってしまった。
 そんな中、狂気とも言えそうな騒ぎに嫌悪を感じたレナードは、教室を抜け出し生徒会室へ逃げ込んだ。さらに窓から裏庭へ脱出すると、耳が痛くなるわめき声がやっと聞こえなくなったので、ほっと胸をなで下ろした。
(いかにもって感じの化け物より、ああいう連中の方がタチ悪いからな……)
 固い芽が鈴なりについた木にもたれかかり、冷えた手を白い息で暖める。冬の静寂を楽しむレナードの耳に、枯れ草を踏む音が聞こえてきた。
 少しして、裏庭の隅にサマンサが姿を見せた。
「……連れ戻しに来たのか? 言っとくが俺は帰らねえぞ」
 サマンサは無言のまま近づいてきた。昨日までと違うフレームの眼鏡は度が合わないのか、時々必要以上に目を凝らしている。手を伸ばせば届く距離まで来ると顔を上げ、レナードを強くにらんだ。
「どうした? お前まで頭がおかしくなったか?」
「いいえ。あなたと一緒にいるのが嫌になっただけです」
 そう言ってもう一歩前に出た生徒会長は次の瞬間、両手を副会長の首にかけた。
「何すんだよ、いきなり! ……ぐっ……苦しい……っ」
 想像もしなかった力で首を圧迫され、一瞬呼吸を忘れる。
 まさかこいつに絞め殺されるなんて。
 レナードはサマンサの手首を掴んで引き離そうとしたが、突然窮地に追い込まれたショックも手伝って、思うように力が入らない。
 眼鏡の奥に見える彼女の瞳は、輝きを失っていた。しかし今にも泣きそうな、何かを悔やむ目でもあった。殺すことをためらっているにしては、手の力がゆるまない。
(どうすりゃいいんだ、俺は……このまま死ぬしか……ねえのか……?)
 両手から力が抜ける。視線が定まらなくなる。意識が少しずつ遠のく。やがて呼吸の停止を確かめたサマンサがそっと手を離すと、レナードはあっけなく崩れるように倒れ、そのまま動かなくなった。


 その頃。
 銀色の閃光に追い回されるティオもまた、生命の危機にさらされていた。チェリーを探しながら疾走する彼は、投げつけた鞄を見事2等分された辺りから、自分もそうなると信じて疑わなかった。
(指輪が反応してる……これも敵の罠なんだろうな。こうしてる間にもチェリーは……)
 1年生の教室のそばを通った。ジーノのひときわ大きい声が廊下に響く。
(でも、偽者じゃない。レイは誰かに操られてるんだ。……きっと、そうだよ)
 帰宅部のティオに2年生の知り合いはほとんどいない。近くにいても素通りするしかなかった。
(問題はどうやって止めるか、だな。下手に攻撃して怪我させるわけにもいかないし……)
 こうして考えている間にも、騒ぎはますますひどくなっている。3年生に至っては乱闘が始まっていたので、その中に飛び込むわけにもいかなかった。ティオは逃げ場がないに等しいことを悟った。
 レイはためらうことなく剣を振り下ろしてくる。彼の通った後には無数の「何か」の残骸が転がっている。その中に生物が含まれないだけまだましかもしれない。
「お願いだから目を覚ましてよ! レイ! 君はこんなコトする奴じゃない……!」
 首を落とし損ねた刃が壁にめり込んだ。ティオの腕をかすめたとき付いた赤い筋が、嫌でも目を引く。廊下の端に追い詰められたティオが必死に呼びかけても、レイは表情ひとつ変えなかった。
 ティオはわずかな隙をついてレイの脇をすり抜け、取り柄の俊足で長い廊下を一気に駆け抜けた。距離が開いている間に、不利な形勢をひっくり返さなければならない。
 どうしてだろう。普段つきあいのない人が手を組んで、仲がいいはずの人に悪口を言う。嫌いな奴と手を組んで、好きな人を攻撃する。
 好きだから傷つける。嫌いだから近づく。
 嫌いじゃないから……大好きだから、殺す?


 時間割通り美術室に来ても、クラスメートはおろか先生もいない。ソフィアを出迎えたのはチェリーだけで、いつも一緒にいるはずのティオが見当たらなかった。
「ね、そふぃあ。みてみて。ちぇりーがみつけたの」
 チェリーは保護者不在を気にする様子もなく、生徒用の机の1つを指した。広い机の上にはチェス盤が1面。並べられたガラスの駒は勝手に動いている。見えない手がチェスの試合を楽しんでいた。
 すぐ近くまで寄ると、白の劣勢が一目で分かった。1歩前に出た白の兵士(ポーン)が、次の一手で相手に取られてしまう。
「みて、きのうのおうまさん」
「………………?」
「きのうね、くろいおうまさんが、かくれんぼしてたの」
 チェリーは駒に触ろうとして、見えない手にはじき飛ばされた。馬の頭部をかたどった駒は確かにある。騎士(ナイト)だ。黒い馬の1頭があと数歩進めば、白の王(キング)は追い詰められる。
 一方的な盤上の戦い。直感か同情か、このまま黒に勝たせてはいけないと思ったソフィアは、近くの椅子に腰を下ろした。そして迷わず白の女王(クイーン)に手を伸ばし、斜め前に進めて黒の兵士を追い払った。透明人間は邪魔してこなかった。一手ごとに白が勢いを取り戻す。
「……あれ? てぃおは……?」
 ようやく何かがおかしいことに気づいたチェリーは首をかしげた。待っていても仕方がないようなので、とりあえず盤の横に座って試合を眺めることにした。
 ソフィアの手が騎士を動かす。表情が読めない相手との、負けられない勝負。コンピュータに挑む世界チャンピオンの心境も、これに近いだろうか。
 逆転が射程距離に入ったその時。取ろうとした黒の僧正(ビショップ)が、破裂音と共に砕け散った。


 サマンサの表情が凍りついた。立ち去ろうとしたところ、息絶えたはずのレナードが突然立ち上がり、背後から彼女を抱きしめたのだ。
「どうした? もう一度俺を殺してみろよ」
 両腕の動きを封じた上で、挑発の言葉をささやく。レナードは完全にいつもの余裕を取り戻していた。左胸の下に触れる右手は、爆発的に早くなった心臓の鼓動をはっきり感じている。
「それとも、びっくりして目が覚めた?」
「……ええ、おかげさまで……」
 真っ赤な顔と震える体に、多少の照れと怒りが表れていた。
 レナードが交差した腕をほどくと、サマンサはすぐに数歩分の距離を取ってから、冷たい地面の上に座り込んだ。
「……よかった……本当に、死んでしまったのかと……思いました……」
 指でしきりに目をぬぐっている。涙をこらえきれなくなったのか、眼鏡を外して代わりにハンカチをあて、声を出さずに泣き始めた。
「あんなので俺がくたばると思ったのか? ……ずっと息止めてんの、大変だったんだからな。聞いてる?」
 言いながらレナードは正面に回り込み、サマンサの表情を伺った。これは俺が泣かせたことになるのか? いや、こいつをそそのかした誰かのせいだ。後で責任を問われないようにと願う一方で、彼女がまともに話せるようになるのを待った。
 数分後、ハンカチのほぼ全体を濡らした生徒会長はやっと顔を上げた。
「……申し訳ございません……わたくしは、本当はあんなこと……するつもりはなかったのですが……」
「だろうな。お前が真顔で人殺せる性格とは思えねえし」
「わたくし……信じていただけないとは思いますが……あの時、どうしても体が、言うことを聞かなくて……。……本当に、あなたには申し訳ないことを」
「もういい。分かった」
 レナードはサマンサに手を貸し、立ち上がらせた。
「つまり、一緒にいるのが嫌だっていうのは、お前の本心じゃねえんだな?」
「………………」
 眼鏡のないサマンサが自分の位置を分かっていないのかと思ったのか、レナードは顔を近づけた。驚いてのけぞる彼女の右手が反射的に動いた。


 乾いた音が、冬の空気の中に大きく響いた。
「……あら……いい音……」
 ソフィアは手を止め、窓の外を見た。誰が誰を平手で打ったのかは知らないが、押され始めて焦っていた彼女の心に平静を呼び込んだのは間違いなかった。
 チェス盤を前に姿勢を正す。敵の数は半減させたが、こちらは全体の3分の1しか残っていない。不利に変わりはなかった。壊れた僧正を皮切りに連続で黒駒を倒した白騎士に、黒騎士が迫る。隙があった。後ろに控えていた白の城(ルーク)が、一手で敵を討ち取った。
 要塞をかたどった駒から手をどけると、同じ名を持つクラスメートのことを急に思いだした。そう言えば今日は学校に来ていない。彼がいたら、今日の混乱も少しは違っていたかもしれないのに。
「てぃお、まだかなぁ……よりみち、だめだよー」
 退屈そうに寝転がるチェリーは、刺客の気配を感じていないらしい。不意打ちに遭う危険はなさそうだ。ソフィアは目の前の勝負に集中した。王を守る布陣は完成したが、敵を攻める駒が足りない。危険を冒すしか道はなさそうだ。


 <エアリーブレード!>
 風の刃は鉄の刃にあっさり崩された。魔法による反撃に転じたところで、ティオはようやく親友が武装している理由に気づいた。自分がやりそうなことは全て敵に見抜かれている。必死の攻撃がことごとく、鎧にはじき飛ばされる。
 それでも「攻撃は最大の防御」とはよく言ったもので、レイは目に見えるダメージこそ無いものの、確実に動きが鈍っていた。
「レイ、聞こえるよね!? 昨日は僕が悪かった、ごめん、だからもうこんな事やめようよ!」
 必死に呼びかけても届いていないのか、表情に変化が見られない。目の前にいるのが本当に自分の親友なのか、ようやく疑うようになったその時。ティオの身に輪をかけた異変が起きた。
『……理論(セオリー)は通じない』
 誰もいない廊下で、空耳にしてははっきりした声を聞いたのだ。ソフィアに似た声はさらに告げた。
『この態勢から直接攻撃を仕掛けるのは不可能……でも、目の前の敵を封じれば……』
 それはアドバイスとも取れるし、別のことに向き合う彼女の心の声とも考えられる言葉だった。
 確かにそうだ。レイが本物かどうかなんて、この際関係ない。背後に潜む敵を叩けば全てが終わる。そのためには──
 指輪は即座に反応した。青白い光がティオに言葉をもたらす。
<フロウカスケード>
 ティオの心臓を狙った剣は、突如出現した水の壁を突き崩して飛沫を散らした。期待された感触ではない。レイの目にゆがんで映る標的の影が、より強い光を放った。
<……アルティマフリーザー!!>
 突風が左右の障害物で次々に反射され、複雑に入り組んだ気流を作り出した。壁の残骸を巻き込んで吹き続ける風はやがて視界を奪う猛吹雪と化した。目には見えなくても、少しずつレイの体から熱を奪ったに違いない。
「本当にごめん……後で助けるから、そこで待ってて」
 指輪が光を失う頃には、廊下全体に雪が積もっていた。ティオは氷の柱に閉じこめられたレイに軽く謝ると、校内のどこかにいるであろう敵を探し始めた。


 取られた白駒を枕に寝転がっていたチェリーが、急に起き上がった。何かを待ちわびるようにそわそわして落ち着かない。足音がソフィアの耳にも届くようになって間もなく、妖精は羽を広げて机の縁から飛び出した。
「てぃお、みっけ!」
「こんな所にいたのか……よかった、無事で。……あれ? ソフィア?」
 チェス盤と向き合うソフィアは傍観者に関心を示さず、女王の駒を前進させた。見えない相手の動きが止まる。王に逃げ道を用意しようと必死のようだが、どう動かしてもそこは白の通り道に重なった。
 ついにソフィアは席を立ち、静かな声で宣言した。
「……チェックメイト」
 盤と駒が解けるように形を崩し、蒸発して消えた。ティオの指輪につきまとっていた暗闇の色も同時に薄れていったので、おそらく敵の脅威も消え去ったのだろう。すぐにティオはレイのことを思い出し、引き返した。
「……元に戻ってる……」
 幸い、自分が仕掛けた氷も必要なくなった時点で消滅し、元通りの床に座り込んだ親友は夢から醒めたような顔をしていた。実際、とびきりの悪夢を見ていたようである。
「謝りたいのはこっちの方だよ。自分でも何やってたんだかさっぱり分からない……それに、どうしてこれを持ち出したのかも覚えてないし」
 レイはペーパーナイフの大きさに戻った剣を眺め、欠けた記憶をティオに埋めてもらおうと尋ねた。
 そこへサマンサが現れ、ソフィアを含めた3人に教室へ戻るよう強くせき立てた。ひどく興奮している様子である。ティオとレイが顔を見合わせていると、レナードが来てこう言った。
「早く行った方がいいぜ、あいつ今ものすごく機嫌悪いから」
「それって……先輩のその顔と、何か関係が……」
「ほっといてくれ。……ったく、近寄っただけで叩くか普通……」
 レナードはサマンサの襟を掴み、彼らの戻るべき場所へ連行した。彼の左頬と首筋に手の跡が赤く残っているのを見てしまった以上、気にしない方がおかしい。
「喧嘩でもしたのかな……」
 すっかり元通りの関係に戻った2人は、争いに加わらなかったチェリーとソフィアに急かされ教室へ戻った。しかし急ぐ必要はなかった。誰もが放心状態でその場に固まり、授業どころではなかったのだ。


 1枚のチェス盤を前に、固まっている人物がもう1人いた。クリスである。
「ねぇ、エーディン……途中で乱入してきた子、誰だか分かった?」
「はい。こちらの人物ではないかと」
 手渡された個人データの目を通したクリスは頭を抱えた。一度本人に会ったことがある以上、その時のことを思い出さずにはいられない。
「会いに行きたいんだけど、暇作れるかしら。……今進めてる計画が終わった後でいいから」
「リベンジでもなさるおつもりですか?」
「違うの、コーチになってもらおうと思って。今のままじゃパパには勝てそうにないし」
 ため息を付いてから、駒を片付け始めた。もう一度これで遊べるかも分からない。彼の前には今、生死に関わる問題が横たわっている。
 黒い軍服をまとった使者が部屋の前に来て、全ての準備が整ったと告げた。そして、計画の最高責任者がクリスを呼んでいることも付け加えた。
「分かった、今行く。……エーディン、いよいよね。ベテルギウスが覚醒する」
「第4段階まで終わったのであれば……早ければ明日にも、最終段階に」
「焦らないことね。1つでも間違えれば、大変なことになるんだから」
 クリスが席を立ち、間もなく彼の部屋は無人になった。


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