第19話 〜覚醒〜


 「みゅ……」
 青のグラデーションを白が少し和らげた、そんな空をチェリーはぼんやりと眺めていた。時々漏れるため息は恋わずらいのそれに似ているが、幼い妖精は違う何かを空の向こうに求めているようだった。
「チェリー? ……もしかして寝てる?」
 ベッド代わりの小さな箱の中に座り、楽しい夢の余韻に浸っていたチェリーは、後ろからティオの声がしてようやく我に返った。誰だろう。名前を思い出せない誰かと夢の中で遊んでいた。
「みゅ──……うっ」
 大きく伸びをしてから立ち上がり、羽を動かしてふわりと宙に浮いた。昨日のうちに出しておいた白い服を手に取り、ティオがそうしているように急いで着替える。しかし、飛び立つ鳥の羽音につられて再び窓の方に目を向け、そのまま止まってしまった。
 どうしてだろう。空の向こうで誰かが待っているような気がする。
「早く!ぼーっとしてると置いてくよ!」
「……うみゅっ!?」
 チェリーが大慌てで追いかける頃には、ティオは階段を駆け降りていた。妖精の心中は深い自覚こそないものの複雑だった。今はまだ彼と一緒にいたいという気持ちが強い。でも、自分を待つ誰かに会いたいという気持ちも、日ごとに強くなっている。
 一方、居間に着いたティオは、珍しく両親が揃って食卓についていることに驚いた。
「会社行ったんじゃなかったんだ。2人ともどうしたの、真剣な顔して」
「ちょっとそこに座って。大事な話があるの」
「母さん、僕あんまり時間無いんだけど……」
「分かった。じゃあ立ってていいわ」
 時計を睨みながら主張するティオを前に、両親は悠然と構えている。
「用件は1つだけ。いい? ……ティオ。私達、ここから引っ越すことになったの」


 3月。太陽が西の空に留まる時間はだいぶ長くなり、見かけるマフラーの数が減った。ほとんどの人にとっては一番過ごしやすい時期である。
 下校時刻を迎えた頃の学校。大半の生徒がぞろぞろ帰っていく中、サマンサは彼らと逆の方向へ歩いていた。生徒会長になってから、校内の見回りは欠かさない。
 全ての教室を訪れ、異常がないことを確かめてから生徒会室に戻ってくると、レナードが書類を広げていた。
「副会長……それは……」
「調べ物。お前、これ見てどう思う?」
 机の中央には、学校周辺の地図をコピーした紙。赤の×印がいくつも書き込まれていた。
「……この、裏庭周辺に印が多いようですが。何を調べているんですか?」
「今までに化け物が出たり変な事件があったりした場所。ご指摘の通り、この辺に一番よく出るらしい」
 そして散らかった報告書を片付けながら、
「そこには絶対何かある。そうじゃなきゃこうはならねえよ」
「その、何かというのは……」
「分からない。とにかく今日は、それを確かめてから帰る。……ちゃんと前もって言ったからな、後になって聞いてませんって怒るなよ」
「えっ、そんな……副会長! 言えばいいというものではありません、こんな時間に何をどうやって調べるつもりなんですか!?」
 サマンサは傾いた眼鏡を直し、レナードの腕を掴んで止めようとしたが、簡単に振り払われた。
「少なくとも、1人では行かないでください。もしあなたの身に何かあったら、皆さんに迷惑が……」
「大丈夫、見てくるだけだから」
 生徒会室の小さな窓が目一杯開け放たれる。
「それとさ、前から聞きたかったんだけど」
「何でしょうか」
「お前、いつになったら俺のこと、名前で呼んでくれるようになるの?」
「………………」
 生徒会長が返答に窮している間に、副会長は窓枠を乗り越えていた。木の枝を渡り歩き、裏庭の外側へ着地する頃になってやっと、「ごまかさないで下さいっ!」というわめき声が聞こえた。


 夜も遅いというのに、チェリーは雲に覆われた空を夢中で眺めていた。ティオはそれを叱れなかった。眠れないのは自分も同じだからだ。
(昔からそうだ……大事なことをギリギリまで言わないのは)
 転勤。しかも2人一緒ではなく、地球を挟んで反対側にある別々の支社へ行くと言う。おかげで今朝は「父さんと母さん、どっちと一緒に行く?」という、まるで離婚目前のような質問を突きつけられた。
(大事な企画だか何だか知らないけど、あんな聞き方しなくても! ……どっちかなんて、選べるわけないのに……)
 照明を全て落とした部屋の中で、窓枠に座る妖精の羽がかすかな輝きを放つ。
(僕とチェリーで2人、ここに残るって言ってみようかな……でもチェリーには『聖者を捜す』っていう使命があるから……いつかは、ここを出ていくんだよね……?)
 一人きりでこの家に残される。卵を預かる前の生活と大して変わらないようでいて、決定的な何かを欠いている。
 完全な孤独を選ぶか、住み慣れた街と片方の親をあきらめるか。3択問題の結論を求められるまでの残り時間は既に1日を切っている。
 時計の針が12時を回った。ティオはチェリーを枕元へ呼び寄せ、頭を優しくなでた。たまには一緒に寝てもいい。気まぐれを拒否されることもなく、やがて2人は眠りについた。


 翌朝。ティオは額に受けた衝撃で目を覚ました。先に起きたチェリーが目覚まし時計を持ち上げ、彼の頭上まで運んでから落としたのだ。
「チェリー、その起こし方はやめろって言ってるのに……」
「みゅう?」
 相変わらず無邪気な顔で首をかしげられた。仕方なく起きたティオは目覚まし時計を元の場所に戻し、隣に置かれた小さな箱を目に留めた。
(そういえば、これ……何が入ってるんだろう)
 白いリボンがかけられた箱──それはリゲルからのクリスマスプレゼントだった──はまだ一度も開けたことがない。追い詰められるまで開けるなという約束だった。
(そうだ! これ持ち歩かないといけないんだ……いつ危険な目に遭うか分からないし)
 チェリーと一緒に箱も鞄の中に放り込むと、ティオはいつも通り学校へ急いだ。特に敵などの妨害もなく、チャイム直前に教室へ滑り込むことが出来た。
「おー、1秒前。お見事〜」
 何故かジーノ達の拍手に出迎えられた。苦笑するレイ。周囲を気にせず喋るジュンとベル。クラスの雰囲気、級友の表情はいつもと変わらない。
 その中でティオは2つの違和感を持った。1つは、いつも何事にも無関心なソフィアがしきりにこちらを見ること。もう1つはチェリーが落ち着こうとせず、何かを探すように動き回っていることだった。
「おはよう、ティオ。……どうするか決まった?」
 親友のレイにだけは、両親の重大発表をその日のうちに話した。レイは実際に両親の離婚を経験したため、選択を迫られる辛さも、転校で友達と離ればなれになる寂しさも知っている。ティオにとってこれ以上の相談相手はいなかった。
 しかし、何かが心に引っかかる。
「決められるわけないよ、どっちに行っても大して変わらないだろうし。今日中に決めて、出発は来週だって言われても……急すぎるよ」
「そうだよね。ティオの場合は別れてそれっきりになるわけでもないし、会いに行こうと思えば出来るけど……それでも、一緒にいられないのは……」
「大変です、ジーノさん! 何か来てます!」
 バートのよく通る声にクラス中が反応し、ティオ達も会話を中断した。見ると、窓の外で一羽のカラスが旋回と急接近を繰り返している。足に付いた白い輪には見覚えがあった。
「あれ、確かルークといつも一緒にいる……アマーロだっけ?」
 飼い主の姿はない。相棒だけが学校に来るということは、彼の身に何かあったに違いない。ジュンが窓を開けるとアマーロはすぐ教室に飛び込み、折り畳まれた紙をティオの頭上に落とした。


 高い天井を持つ薄暗い部屋に、支配者の誇らしげな声が響き渡る。
 王者の衣装をまとった若者の前には、その捕虜となったリゲルが鎖につながれた姿で投げ出されていた。後方に立てかけた板はスイッチ1つで鎖を収納し、彼を磔(はりつけ)にすることが出来る。
「えー……もしもし?こっちはもう始まったわよ」
 クリスは部屋の隅に置かれた檻にもたれかかり、携帯電話を耳に当てた。
 玉座が安置された部屋の中世的雰囲気に似合わないものがここに3つある。1つは若者が手に持った焼きごて。もう1つは電波を介した声のやりとり。
「そう、順調よ。……エーディン、ちょっとミディールに代わってくれない?」
『彼はつい先程席を外しました。地下牢を見に行くのだとか』
「しょうがないわね。後でこっちにかけるよう言っといて」
 似合わないものの3つ目、檻に閉じこめられたルークは、拘束直前に逃がした相棒を案じていた。
(ティオはもう手紙読んだかな……早く来てよ、このままじゃ取り返しのつかないことに……)
 昨日の朝早くリゲルと共に敵の拠点へ忍び込んだものの、その行動全てを敵に見抜かれていた。スピカを見つける前に自分達が捕まり、地下牢での監禁を経てここへ連れてこられた。助けを待つことしかできないのがつらい。
 自由を奪われたリゲルに浴びせられる暴言の嵐。「陛下」と呼ばれる若者の顔がティオによく似ているために、余計に怒りが増す。
(よりによってこんな奴が、チェリーを狙ってた首謀者とはな……)
「まだ降参しない? 分かってると思うけど……抵抗したって無駄だよ」
 城主は兵士に命じてリゲルの服を半分ほど破り捨てさせ、さらけ出された胸に焼きごてを押しつけた。期待した叫び声は聞かれなかった。


 (エーディンは要注意人物(ブラックリスト)の筆頭だとか言っていたが……本当なのか?)
 牢を訪れたミディールが最初に抱いた感想は、疑念だった。格子の向こうに転がされているのはどう見ても普通の少年。話に聞いたような危険が実感できない。
(鍵はかかっている……問題ないだろう)
 ミディールは牢に背を向けて立ち去った。
 直後に少年が目を覚ました。ふたつの意識が完全にすれ違う。
(……俺、まだ生きてるよな……?)
 ゆっくり上半身を起こしたレナードは、全身の痛みに顔をしかめた。
 林の中に仕掛けられた落とし穴が、異世界の城に続いていた。それに気づいた頃には警報装置が作動していて、彼は駆けつけた衛兵にあっさり取り押さえられた。袋叩きにされたのも、手錠をかけられたのも初めての経験である。
「ご苦労様です。これ、エーディンさんから」
 揚羽蝶と入れ違いに現れた銀髪の少女が、鉄帽を目深にかぶった看守にパンを手渡していた。レナードが無言で少女を観察していると、視線が合った。
「あ。……あなたの分も、もらってくればよかったかな」
「いいよ俺は、別に期待してないし」
 理由も聞かず自分を監禁した連中が、素直に食べ物を恵んでくれるとは思えない。そう考えて首を振ったレナードに対し、少女は本気で何かを考えてから、すぐ戻りますと言ってどこかへ消えた。
 そして彼女は本当に戻ってきた。両手に何かの袋を抱えて。
「看守さん、ここを開けて下さい。彼、怪我してるでしょう。治療したいんです」
「何を言っている! そいつは敵だぞ!!」
「クリスさんが人体実験に使うって言ってました。聞いてませんか?」
「………………」
 納得と絶望。2種類の沈黙の中で、牢の扉が開かれた。


 「ルークが……敵に捕まった!?」
 アマーロがもたらした手紙には、ティオ達を愕然とさせる言葉が並んでいた。自力での逃亡が不可能だということ。敵が何か大きな事を企んでいるということ。そして、
『このままだとリゲルが危ない、チェリーを連れて早く来て』
「……これ、どういうことだろう」
 ティオが首をかしげている間に、チェリーは冷たい風を感じて顔を上げた。開けっ放しの窓の外に見えるのは青空だけ。しかしその中に一瞬だけ、蒼い影を見た。
「みゅ……?」
 チェリーは軽く羽を動かし、やや高めに浮かんで窓に近づいた。誰も呼び止めない。気づいていない。
 影は遠ざかるように見え、すぐに消えた。チェリーはほぼ直感に近い決断を基に、外へ飛び出して影を追った。強い気持ちが背中を押す。不安やためらいが無力と化す。
「副会長! そこにいるんでしょう、そろそろ降りてきてください! 授業が始まりますよ!」
 屋上を越えて裏庭の上空を通るとき、サマンサの声を聞いた。大木を見上げている彼女は、そこに誰もいないことに気づいていない。
「……うみゅ? えーと、……あっち!」
 方角を見失って立ち止まり、また思い出して動く。チェリーは誰かを案内するようにいちいち声を出しながら、夢中になって影を追った。


 ルークはマントの内側に縫いつけた薬瓶を手探りで数えた。使った覚えはないのに、1本足りないような気がする。
(どっかで落としたのかなぁ……)
 出来れば自分の目で確かめたいのだが、クリスに見張られているせいで下手に動けない。
 一方、リゲルは城主のなすがままにされていた。枷で板に固定された体に焼きごてが近づくたび、火傷が増える。もがいても相手は楽しそうに笑うだけだ。
「お前、スピカをどこに隠した……今すぐ返せ。せめて居場所を教えろ!」
「変なの。こういう時って普通、僕から何か尋ねるんだけど……それに、教えたって何になる?」
 松明の中から下ろされた金色の鉄火が、さっきよりさらに首筋へ近づいた。
 一生跡が残るかもね。
 冷酷な独裁者は一言一言を、リゲルではなく別の誰かに向かって言ったようにも見えた。
「会わせてやってもいいよ、でも今は出来ない。服従を誓ってくれれば、少しは考えるけど」
「………………」
「さあ、どうする? 君は……」
「何ですってぇ!?」
 部下の絶叫が言いかけの言葉をさえぎった。城主はすぐに顔を上げ、クリスに退室を命じた。
「ついでにその箱も持ってっていいよ。仲間を盾に取るの、こいつには無駄だったから」
「はーい……もう、びっくりさせないでよ、つい叫んじゃったじゃない! エーディン、今すぐ追って」
 クリスは上司の刺すような視線から目をそらし、ルークを入れた檻を押して運びながら、報告の電話に耳を傾けた。
『追跡はミディールに任せました。看守を一撃で気絶させた相手です、ここは彼が適任かと』
「気っ……てっ、手錠かけたって言ってたわよね……?しょうがないわねぇ、じゃあミディールに伝えて。野生の獣を飼い馴らすのは難しいから気をつけなさいって」
 箱を支えるキャスターの音が、廊下にやたら大きく響く。


 助けを求める友達を見捨てるわけにはいかない。ティオはルークの指示通り、彼を助けに行くことにした。一番近い侵入口は学校の裏手にあるという。道案内をしてくれるというアマーロは羽づくろいを終え、いつでも飛び立てる状態にある。
「僕も一緒に行くよ。ティオ1人じゃ心配だし……大丈夫、足を引っ張らないようにするから」
 レイは小さくなった剣をかざして言った。信頼できる仲間はいた方がいい。ティオは深くうなずき、親友の申し出に感謝した。
「……そういえば、チェリーちゃんは?」
「え? チェリーならここに……さっきまで……あれ?」
「あの……そのことなんですが……」
 妖精がいないことにようやく気づいた2人の間に、ベルがおそるおそる割り込んだ。右手をゆっくり持ち上げ、教室の入口を指す。そこにはサマンサがいた。
「会長……?」
「ついさっき、裏庭でチェリーちゃんを見かけたそうです」
「裏庭!? それで、何してたんですか?」
「分かりません、とにかく林の奥へ入っていったんです。……ところで、1つお聞きしたいのですが」
 よく見ると、サマンサの眼には冷静さがなかった。何かこみ上げる感情を必死に抑えているらしい。
「……副会長、見かけませんでしたか?」
「レナード先輩がどうかしたんですか?」
「それが、先程……お母様から連絡が……昨晩から、家に帰っていないと……」
 泣き崩れる姿が、スローモーションに近い形で後輩達の記憶に刻まれた。「わたくしが力ずくでも止めていれば」。すすり泣きの中に聞き取れた言葉が、1人の心を動かした。
「行って」
 ティオの肩に白い手が置かれる。ソフィアだった。
「……ルークのところへ? そしたらチェリーは……」
「私が捜す。だから、先輩も入れて3人、連れ戻して」
「先輩も? いるかどうか分からないのに……いや、そこにはいないと思うんだけど」
「行きなさい」
「………………」
 ソフィアの後ろで、ジーノが顔を引きつらせている。それを見たティオは、彼女が初めて強気な語調で喋ったことに気づいた。堅い決意を持った目が、出陣を促す。
 時間がない、早く。アマーロもせき立てるように鳴く。
「分かった。チェリーをお願い。……必ず、ルーク達を連れて帰ってくるから」
 ティオの心から迷いが半分ほど消えた。飛び立ったアマーロをレイと共に駆け足で追う彼を、クラスメート達の声援が送った。
 入れ違いに現れた先生は事情を知らない。まず廊下を飛ぶカラスに驚き、それからソフィアを先頭に生徒達が教室から散るのを制止できず、呆然とその場に立ち尽くした。


 「……待って、私、……もうダメ……」
「ここで止まったら危険だ。もう少し走れるか?」
 敵の追っ手はすぐ後方。レナードは自分の手を握る少女の気持ちは理解できたが、彼女の願いを聞き入れるわけにはいかなかった。
 スピカと呼ばれていた少女が傷の手当てを終えた直後、その手を振り切って逃げた。体の前に組まれた両手で看守を殴り倒し、手錠を断ち切る方法を探していたところへ、彼女が追いかけてきた。
 「待って」。それは彼を捕らえようとする者の声ではなかった。
「ところで……俺、本当に実験台にされるの?」
「嘘も方便、って言いません?」
 鎖を工具で焼き切った時点で、スピカは脱獄の共犯となった。謎めいた城自体が彼女にとっては監獄であり、そこからの脱出を願っていたらしい。弱音を吐きながらもつないだ手を離そうとしないことからそれがうかがえた。
「記憶が間違ってなければ、俺は来るときここを通った。逆をたどれば……」
 2人は長い廊下を抜け、広い空間へ到達した。学校中の人間を集めてパーティーでも開けそうな大広間。建物4階分の高さの吹き抜けと、天井から吊されたシャンデリアの大きさに圧倒される。
 しかし、その場所自体が罠だった。広間の扉が突然一斉に閉ざされ、2人は完全に逃げ場を失った。驚きのあまり凍りついている少女の真横を、何かの輝きがかすめる。
「………………」
 振り返ったレナードは顔をしかめた。彼女の髪と同じ銀色の、鋭い刃が自分に向けられている。それも、どちらの首筋にもぎりぎり触れない絶妙な角度で。
「貴様が犯した罪は重い。……この意味が理解できるか?」
 スピカの背後に立つミディールは、暗殺者の目をしていた。


《………………》

 ダイアナは堤防の斜面に腰を下ろし、頬杖をついて川を眺めていた。オレンジの髪を風が揺らす。ハンドバッグの表面に、遅い朝の光が映る。
 川の流れに沿って吹く風が、川岸のゴミを散らす。その中にきらきら光るものが混ざっているのを、目が反射的に捕らえた。そして彼女は目を疑った。
(あれは……ちょっと待って、あれは……間違いない!)
 携帯電話の着信音が、腰を浮かしかけたダイアナを止めた。うっとうしそうな声で応答した彼女は、声を聞くなり表情を変えた。
「……あら、ジュン。今授業中じゃないの? ……え? 灯火がいなくなった!?」
 もう一度川に目を移し、携帯電話を持ち直す。
「そう、チェリーが……今、目の前通ったんだけど……」
 風が止んだ。木の葉と共に妖精も川岸に舞い降り、やがて泣き声が聞こえてきた。

《……ユルセナイ……》

 ティオは五感を出来る限り研ぎ澄ませ、慎重に周囲の様子をうかがった。緊急時に使うという小箱は持ってきたし、指輪の力もいつでも発動できる。すぐ後ろについて歩くレイは剣を構えている。敵の本拠地に入ったからには、一時の油断も許されない。
「……アマーロ、まだ、時間かかる?」
 羽を使わず床を歩いて先導するカラスに尋ねると、即座に首を縦に振られた。ティオは肩を落とした。出来れば急ぎたい。トラブルを早く片づけて、この緊張感から解放されたい。
 2人と1羽が警戒しながら暗い通路を歩いていると、突然後ろから、
「だーれだ?」
 語尾にハートマークでも付きそうな甘い声がした。見ると、レイが誰かの手に両目をふさがれている。顔が青い理由はすぐに判明した。
「お前は……いつかの誘拐犯! ……と、……あれ? ルーク?」
 側に置かれた檻の中でこちらを見上げるルークは、思ったより元気そうだった。城主に退室を命じられ、見張り役の大佐とやらにどこかへ連れていかれる途中だったという。
「一時はどうなるかと思ったよ。とにかく良かった、会えて……」
「それより手紙に書いてあった、リゲルが危ないってどういうこと?」
「問題はそれなんだよ。チェリーは?」
「……チェリー? それが……今、行方不明で……」
「ええっ!? どうしよう、あの子の力が必要なのに!」
 ルークは頭を抱えた。レイを人形のように抱きしめているクリスもまた、何やら考え始めた。
「あら大変。最悪の事態、想定した方が良さそうね」

《……ソウヤッテ……誰カヲ、利用シテ……苦シメテ》

 さあ、どうする?
 独裁君主が一見優しそうな顔で、何かの答えを期待するように問いかけた。散々痛めつけられ息の荒い相手から明確な返答はなかったが、見上げる顔に予想通りの反応が表れている。
「そう、その表情……本当の君に近づいてきた」
「何のことだ!」
 抗議するリゲルの青い瞳が赤く見えてきた。目の錯覚ではない。彼の中で起こっている変化は、思い通りに事が進んでいる証だった。
 あと1歩で計画が完成する。本人が無自覚というのは気になるが、その身体に封じられた力を解放し、自分の手中に収められればそれでいい。無限の欲望を持つ若者は、焼きごてを松明に持ち替えた。
「僕のことが憎い? どう思ってくれてもいいよ、君の心だけは自由だから」
 城主は柔らかく笑った。しかしその手は火をリゲルの足元へ近づけている。
「……でも、君の望みは叶えてあげない」
 熱が近づくだけで足がぴくりと動く。色あせたジーンズが少しずつ焦がされる。松明を支える手が滑ったら間違いなく──彼は2年前と同じ目に遭う。

《全テガ許セナイ……ミンナ、滅ビテシマエバイイ……!!》

 誰のものともつかない声が、地響きとなって一気に広がった。


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