第20話 〜解放〜


 それは、夢の中で味わった以上の悪夢だった。
 ティオは突然の地震に翻弄されて立つ事も出来ず、揺れがおさまった後もしばらく動けなかった。他の3人も同様で、今までおびえた様子を見せたことがなかったルークでさえ今回は足が震えている。
 天井の破片が絶え間なく降り注ぐ。建物全体の崩壊は時間の問題だろう。
「逃げましょ、さ、乗って」
 クリスは檻の上面にかけた鍵を外し、ティオとレイの首根っこを掴んで中に放り込むと再び施錠した。ルークと一緒に閉じこめられたことに2人が気づく頃には、既に箱は廊下を滑り出していた。
「アタシの予想が当たってれば、地震は1回じゃ済まないわよ。早くどっか安全な場所に行かないと……ほら来た!」
 2度目の揺れは最初ほどひどくなかったが、クリスをよろけさせるには十分だった。しがみついた彼の重さを加えたことで車輪付きの箱はさらに加速し、緩い下り坂を勝手に直進した。行き止まりに来たら激突するかもしれない。止める方法を模索するティオ達をよそに、ルークは1人うずくまり羽根ペンを握っている。
「あの時と同じだよ。ティオに見せたあの夢と。多分、原因も一緒……そうだよね?」
 誰かに手紙を書く手を止め、クリスを仰ぎ見る。追いついたアマーロが後ろを飛んでいる。
「あの可愛くない長髪の子でしょ? きっと殿下がけしかけたのね。ご無事だといいんだけど」
「ルーク、もしかしてその『原因』知ってるの?」
 ティオが尋ねると、ルークは書き終えた手紙を折り畳みながら言った。
「奴の名は『ベテルギウス』……憎しみに汚され、暴走した精霊のなれの果て」
 そしてアマーロに手紙を持たせ、指を使った合図で何かを指示してから送り出した。
「ついでに言うと……生まれる前からそいつに寄生されてるのが、リゲルなんだ」


 隠し通路を通じてつながっているとはいえ、城と学校は全く別の場所にある。ところが一方が大地震に見舞われたのと呼応するように、他方でもそこまでの規模ではないがはっきり感じる揺れがあった。今、その関連を知る者はいない。
「い、い、今の……もしや世界が」
「滅びないわよ。ただ地面が揺れただけじゃない」
 ジュンはそう言って、仲間と抱き合い体を震わせるジーノを叱り飛ばした。この一帯は地震など滅多に起きないとされている。出身地の違うジュンを除いて、こんな事態に慣れている者はいなかった。だが、そのジュンに恐怖心が全くないと言えば嘘になる。
 彼女達はチェリーを引き取りに行く途中の路上にいた。建物が倒れてくることはなかったが、塀の上にあったらしい植木鉢が地面の上に無惨な姿をさらしている。これが頭上にあったらと思うとぞっとする。進むにも戻るにも危険と言える状況だった。
「一旦戻りましょう? 皆さんが心配してると思います」
 トムが学校の方を見ながら言った。ここにいるのはクラスのごく一部であり、残りは教室に集まって以来そこを離れていない。最初に魔物が現れた日以来何度も行われた避難訓練が、今頃多少は役に立っているに違いない。
「分かった、みんなは戻って。私が行く」
 ジュンが真っ先に言った。やや遅れてベルも手を挙げた。ジーノは何故か沈黙を貫いた。
 しかし、2度目の地震が行く手を阻んだ。目の前で古い街路樹が折れた上に近隣住民の通報で警官が駆けつけ、中学校の制服を着た子供達を見つけるなり今すぐ戻れと大声で怒鳴ったのだ。
 彼らは逃げるように引き返した。ソフィアだけが反対方向へ走り去った。1人立ち止まり振り返ったベルだけが、それに気づいた。


 武器に羽に人質。全てを備えた敵を前に、レナードは黙って両手を挙げるしかなかった。数人の兵士が金属製ロープで彼を縛り、引きずるように運び出す間、抵抗を受ける様子は見られなかった。
 ミディールとすれ違う瞬間、捕まった少女の目に涙を見た。
 言葉が口をついて出た。
「……お前、本当は弱いんじゃねえの?」
 剣を地面に突き立てる音がした。退場しようとしていた兵士達が止まった。
「今、何と言った」
「こういう卑怯な手でも使わねえと勝てないって思ってんだろ」
「……貴様……私を侮辱するのか!」
 左腕をしっかり掴まれた少女――スピカの身体に、怒りの震えが伝わってくる。ミディールの顔を見なくても、彼のプライドに傷がついたことは容易に判別できた。
「小細工ナシでも勝てるっていうなら証明してみろよ。ここ広いし、サシで勝負するにはちょうどいいぜ?」
「いいだろう。ほどいてやれ」
 兵士に命令が下ると同時に、揚羽蝶の羽が消えた。
「命が惜しければ謝れ。今なら許してやろう」
「命を保証してくれるならね」
 束縛から解き放たれたレナードが立ち上がった。兵士達は対峙する2人から距離を置き、地震が起きた直後に逃げ出した。1人残されたスピカの前で、決闘が始まった。
「今さら後悔しても遅いからな」
 先に動いたのはミディールだった。
 羽が無くても常人を上回る跳躍力でレナードの背後に回り込み、斬りかかろうとしたが、
「そう来ることなんざとっくにお見通しだ!」
 振り返った相手の脚が、ミディールの手から剣をはじき飛ばしていた。
「これで条件は互角……丸腰じゃ戦えないって顔してるけど、降参する?」
 レナードは数歩後退して剣の柄に片足をかけ、さらに後方へ送った。
 挑発と逆転。彼が最も得意とする戦法としてブラックリストに記された注意書きを、ミディールは今になって思い出した。自分が罠にはまったことに気づいたのだ。
(どうしよう、止められない……でも……言わないと……)
 2人から離れた位置で、スピカは戦いを中断させるタイミングをうかがっていた。天井に亀裂が入っていることを、一刻も早く知らせなければならない。


 敵味方合わせて4人と共に回廊を疾走していた檻が、呼び出された兵士の手で急停止させられた。そしてクリスの指示により彼の私室へ運ばれ、ティオ達を閉じこめたまま安楽椅子の隣に固定された。
「避難命令出るまでその中にいるのよ、一応アタシの敵なんだから」
 ティオの目の前には鏡があり、どさくさに紛れて捕まった情けない自分が映っている。魔法を使って逃げられるならそうしたかったが、おかしな事に指輪は濁った色のまま、何を念じても反応しない。
「ここから出せ!」
 叫んでみたが反応はなかった。クリスは机の上に広げたノートパソコンのキーを叩いている。しかし、
「……どうしても、ダメですか?」
 レイが言葉を添えた途端に手が止まった。
「あなたが言ったとおり避難命令が出されたら、またこの檻を押して逃げるんでしょう? それより僕達が自分の足で走れた方がずっと早いと思うんですが」
「……しょうがないわねぇ。部屋からは出ないって約束よ」
 仕方ないという顔をしながらも、クリスはあっさり檻の鍵を外した。真っ先にレイ、次にティオが外に出たが、ルークは動こうとしなかった。
「ねえ……これ見てよ」
 ルークは握りしめていたコンパスをティオに差し出した。東西南北の他に「進むべき方向」と「身に迫る危険」を指す3本の針が、不規則にぐるぐる回り続けている。
「コンパスが壊れたんだ。多分ベテルギウスが地磁気を狂わせたんだと思う。……このままだと奴の居場所さえ分からない。早く止めないといけないのに」
「何か問題でもあるの?」
「ベテルギウスの能力は地震だけじゃない。あれは出現のサインでしかなくて……その気になればこの辺を火山地帯に変えるとか、砂漠化を加速させるとか、そういうことを平気でやれるんだ」
「そ……そんな危ないの、どうやって止めるんだよ」
 問いかけたティオは落ち着きを失っていた。リゲルの「裏の顔」とでも言うべき存在がこうやって自分達の命を脅かしているのに、今の自分には何も出来ない。無力の指輪を見るたび焦りと怒りがつのる。
 顔色の変化に気づいたルークは、コンパスを懐に戻しながら言った。
「方法は2つ。前に現れたときは、卵の中にいたチェリーが『汚れなき光(ピュアライト)』を発動して、精霊が溜めてきた力を浄化して消した」
「チェリーちゃんの力が必要って、そういうことだったんだ」
 レイがさりげなくクリスから距離を置きつつ相づちを打つ。
「そう。それで、もしあの子が来なかったら……本当はこんな事言いたくないけど……その時は、リゲルを殺すしかないんだ」
 ルークはそれを最後に言葉を打ち切り、3人に背を向けた。


 最初の揺れがおさまったとき、城主は放心状態でその場に座っていた。
 目の前には何もない。松明の炎に包まれたリゲルは、ひび割れた床と共にはるか下へ落ちていった。それきり何の反応もない。
「……逃げたのか……?」
 手を貸して立たせてくれる人はいない。這うようにして前進し、そっと穴の中をのぞいた。空気の柱が真下にある部屋全てを貫き、底なしの暗闇に続いている。
(宿主の感情が極限まで高まったとき、精霊はその封印を破ると聞く……)
 ベテルギウスが真の姿を見せたことはほとんどない。もし今がその時だとしたら──未知の力を手に入れる、またとないチャンスだ。期待が両足を動かし、立ち上がらせた。
(中でも奴は「憎しみ」に一番強く反応する……そう、今のような状況に)
 暗闇の奥に、血のように紅い輝きが見えた。それは少しずつ大きくなり──少しずつこちらへ近づき──城主の目と鼻の先を通過して天井まで昇った。あたりが異常な熱気に覆われた。
「………………!!」
 2度目の揺れを引き連れて現れた巨大な火球はゆっくり落ちてきて、次第にその形を変えながら静かに着地した。頭と肢体の区別がつき、より鮮明なシルエットを得るに従って、「それ」を呼び寄せてしまった若者の中には恐怖が育っていた。
「これが……本当の……? いや、前に聞いたのとは……」
 溶岩と炎を振り払って現れたのは、獅子に似た白い獣だった。凶暴さをうかがわせる目に、さっきまで見ていた男の面影は完全に消えていた。


 ダイアナは何を言っても泣きやまない妖精をあやしながら、迎えが来るのを待っていた。数回続いた小規模の地震が収束した頃、ようやくソフィアが到着した。
「遅かったわね。……1人で来たの?」
 ソフィアはうなずいて、拾い物を受け取った。友達の顔があることに気づいたチェリーは大人しくなったが、風のざわめきに何を感じたのか、再び泣き出した。
「さっきからわけわからないことばっかり言ってるのよ。何とかして?」
「………………」
 上空をカラスの群れが通り過ぎようとしている。ソフィアがそれを見つめていると、1羽が集団から離れてこちらに近づいてきた。折り畳まれた紙を抱える足に、白い輪が見える。カラスはソフィアに紙を渡し、小さく旋回してからダイアナの頭の上に留まった。
「痛い、痛いから、ちょっと何すんのよ! 何でそうやっていつもつつくの! こらっ!」
 再会したダイアナに対してアマーロがとった行動は、スパイとしての『任務』を終えて解放される前と全く同じだった。ダイアナが鋭いくちばしを払いのけている間に、ソフィアはルークからの手紙を読んでいた。
「ティオ達とは会ったけど……チェリーがいないと出られない。早く」
「みゅ?」
「何それ? 出られないって、あなたの友達一体何やったの!?」
 手紙を元通り畳んだソフィアは問いかけを無視して走り出した。ダイアナはアマーロを連れて追いかけた。走るのに向かないはずのヒールが、すぐ運動靴に追いついた。
「足遅いのね……手紙貸して。えーと……うそっ、あの変態そんなことやってたの!? ……ねえ、この『クローバーの鍵』って、この前あなたが先輩とやらに渡してたアレ?」
「………………」
「それがないと通路入れないって書いてあるけど」
「………………」
 ソフィアは走りながら左手をポケットに入れ、取り出した物を掲げてみせた。
「……それ、もしかして合い鍵?」
「作れって、言われたから」
「うみゅ……てぃおのこえ、きこえた!」
 突然チェリーがソフィアの手を離れ、自力で飛び始めた。先頭を行くアマーロを追い抜き、目指す先はどうやら学校のようだ。


 始業前に飛び込んできた騒ぎから、あるいは最初に防犯システムが作動してから、一体どれだけの時間が経っただろうか。誰もそんなことは考えていない。自分が生き延びる道だけを懸命に探している。
 ティオは床の上に座り、持ってきた箱を手のひらに載せて見つめていた。今は十分に「追い詰められたとき」と言える。箱を開ける時が来たのかもしれない。
「今さら役に立たない物だったらどうしよう……」
 白いリボンに手をかけたその時。
 何の前触れもなく本棚が横に動き、現れた隠し階段をエーディンが登ってきた。後ろに従えた黒服の男と共に、負傷者を運んできたのだという。その顔を見た4人は目を丸くした。
「殿下……!?」
「ティオが2人いる……」
「ひどい火傷だ……」
「……誰?」
 口々に言ってから、目で示し合わせて応急処置に取りかかった。一番大きな問題を抱えた城主は手当の間中ずっと、うわごとのように何かを言い続けていた。
「まずいことになったわよ……ベテルギウスが本格的に暴れ出したみたい」
 クリスは携帯電話で誰かと話している。
「この際だから、もう陛下の名義で避難命令出しちゃって。いいから。……え、ミディールが? バカなことはやめなさいって言っ……て? スピカも一緒なの!?」
 スピカという言葉にいち早くルークが反応した。命令を2、3重ねてから通話を切ったクリスは、包帯だらけの姿になった城主を背負って立ち上がった。
「もういいわ、バカはほっといて逃げるわよ。安全な道なら知ってるから早く。こっちよ」
「待って!」
 扉を開け放った直後、右へ行こうとしたクリスの前にティオが立ちふさがった。
「こっちじゃない、反対の方角に行った方がいい」
「何言ってんのよ、ここのこと何にも知らないアンタに……」
「これが根拠だよ」
 目の前に突き出されたのは、ルークの物と違う色のコンパスだった。3本の針のうち白黒の物は磁気の影響で回り続けているが、残りの2本、金と銀の針は同じ方向を指して止まっていた。
「それ、僕のより性能いい奴だ! どうしてティオが……」
「リゲルがくれたのはこれだったんだ。どっちが何の役割かは知らないけどとにかく、向こうに行けば何かあるんだよ!」
「分かったわ。行きましょ」
 コンパスを持ったティオが先頭、次いでクリスと城主、ルーク、レイ、そしてエーディンと従者。一列になって走る彼らと競うように、後方の壁が崩壊を始めた。


 緊迫した空気の中、周囲で何が起こっているかを全く知らない人物がいた。広間に取り残されたスピカと、彼女の目の前で真剣勝負を繰り広げている2人である。
 最初は相手の動揺を誘ったレナードが有利に動いていた。しかし戦いが長引くにつれ、普通の人間とそうでない者の差が明確になってきた。
「あれだけ偉そうな口をきいておきながら、所詮はその程度か」
 ミディールは受けた屈辱をそのまま返すように言い放った。足下をすくわれうつぶせに倒れたレナードを見下ろし、その右腕に足をかける。
「私は小細工などしていない……貴様が一番よく分かっているはずだ」
 靴の縁に重圧がかかる。
「………………!!」
「人間相手に負け無しでも、ここでは通用しないことを思い知れ。一生その右手が使えなくなっても……それは貴様の責任だ!」
 さらに勢いづいた爪先に蹴飛ばされる。レナードは右腕の中で暴れ回る稲妻の衝撃に耐えきれず、言葉にならない声を発していた。
 次の一撃を重ねようとしたミディールが、スピカの視線に気づいて顔を上げた。
「……何の用だ?」
 スピカは天井を見上げた。地震で生じた亀裂が広がっている。
「あの天井……あとどれくらい持つと思います?」
「そんなことは判らない。……だが、あまり長くはないだろう」
「そうか」 突然、レナードが体を起こした。 「だったら早く、決着つけようぜ」
「まだやるつもりか。懲りていないようだな」
 右手を左手で押さえているようでは、勝負の行方は決まったも同然。しかし彼には何か考えがあるようで、顔の表情がそれを物語っていた。
「考えてみればお前、俺の弱点ばっかり狙ってただろ。よく調べたよな」
 掴みかかろうとする手を避けるように1歩下がり、2歩前進して距離を詰める。
「でも、1つだけ大事なことを見落としてる」
「この期に及んで何を……」
「それはな。……俺が左利きだってことだ」
「……何っ……!?」
 その瞬間、みぞおちに食い込んだ左の拳は、今までのどの一撃より重かった。
 ミディールはついに力尽きた。
 身体が砂のように崩れ、どこからともなく吹いてきた風に流されて消えた。スピカの手にひらりと舞い降りた揚羽蝶の標本だけが、かろうじてその形をとどめていた。


 ティオが握りしめるコンパスは絶えず揺れ動いた。銀の針はほとんど休みなく動き、行き止まりを知らせた。対して金の針は一貫して同じ方向を指し続けている。そこに彼らの求める何かがあるのだろう。
「あーもう、余計なこと言ってくれちゃって!」
 ベテルギウスは宿主が恨んでいる相手を真っ先に襲う。クリスはそんなことを口にしたルークを責めつつ、背負った城主を捨てようかと本気で悩んでしまった自分を叱った。
「ミディールとは全然連絡取れないし、下手すりゃアタシ達まで……あああ、もうダメぇ〜」
「大佐。弱音を吐いていたら、本当にダメになりますよ?」
 エーディンがクリスを追い抜いた。しかしクリスもすぐ後ろの咆哮を聞いた途端に背筋が寒くなり、瞬く間に先方を抜き返した。
 行く手をふさぐ木の扉を、レイの剣が引き裂いた。その先は荒廃した広間だった。
「スピカ! 無事だったんだね!」
「えっ……ルークじゃない!どうしてあなたがここに……」
 3年ぶりの再会を喜ぶ間もなく、一同の背後で壁が爆発した。石とタイルの豪雨から逃げ延びたティオが振り返ると、黒煙と猛火に包まれた魔獣がそこにいた。
「あいつから逃げてきたのか?」
「はい……それより、どうして先輩がここに」
「長くなるから後で話す」
 レナードは全身に浴びた砂埃を払い落とし、見たことのない生き物の風貌を眺めた。
「今度はこいつを倒すんだな?」
「倒しちゃダメなのよ。灯火を待たないと」
 クリスが首を振り、隣でファイルを広げたエーディンが補足した。
「彼は封印を解く以前から既に、並外れた治癒力を有していました。倒さねばならないとしても、一撃で仕留めなければ攻撃は無意味です。……その前に、近づけるかどうか……」
「……別に俺がやるなんて言ってねえんだけど」
 一方、スピカの無事を確かめ一安心したルークは、ベテルギウスのことには言及せず彼女に早く逃げることを勧めた。しかし、そのスピカはこう言っただけだった。
「……リゲルは?」
「そ、それは……」
 目の前にいると知ったら悲しむに決まってる。だから口が裂けても言えない。ルークの頬を汗が滑り落ちた。
「……とにかく、行こう?」
 手を引いて走り出そうとしたその時だった。
 ベテルギウスがひときわ強く吼え、片方の前足で床を叩いた。たったそれだけの動作で、広間の柱全てが根元から溶けるように沈み始めた。
「──────!!!」
 全員が何か言ったが、互いの言葉は1つも聞き取れなかった。分かっているのは、支えを失った天井が落ちて来るという現実だけ。
 反射的に目を閉じ、頭を押さえ、近くの仲間をかばい合った。
 ところが、
「目を開けて。残念だけど、ここは天国じゃないわよ」
 予想した痛みは感じられず、静寂を打ち破る声だけがした。
「ダイアナ……!」
 顔を上げたクリスは懐かしい同僚の姿を見て、肺が空になるほどのため息をついた。それは安堵だけでなく感嘆も含んでいた。黄金の輝きを放つ無数のメダルが、真上に伸ばしたダイアナの指先を中心に何重もの円を描き、光の傘を作っていたのだ。
「久しぶりに会ってみたら、ずいぶん情けない格好してるじゃない」
「アンタこそよく戻ってきたわね。指名手配中のくせに」
 手が下ろされても傘は形を崩さない。以前手を組んでいた者同士が言い合う一方で、
「うみゅ〜う……ごめんなさぁい……」
「チェリー、いいよ、謝らなくて。無事だったんだから」
 ティオもようやくチェリーと合流できたのでほっとしていた。
 でもまだ危機を脱したわけではない。破壊を免れた通路はたった1つ、ソフィアの後方にあるものだけ。それもいつ原型を失うか分からないのだ。
「ルーク……ピュアライトって、どうやって発動させるの?」
「敵に触れると反射的に光を放つはずなんだけど。あんなのが相手じゃ無理かな……」
「原石の力に頼ってはいけない」
 気を失っていたと思われていた城主が口を開いた。
「灯火は自分自身では力を制御できない。意図的に何かを狙うのであれば、制御装置となる人間が必要なのだ。『神に選ばれし者』……いわゆる聖者が伝説の中で携えている剣も、灯火が変化した姿と言われている……」
「灯火が……チェリーが、剣に……」
 傘の下にいる11人が一斉に、小さな妖精に目を向けた。
(僕に……何か出来るのだとしたら……)
 ティオがチェリーに手を差し伸べた。
 反応の無かった指輪が、白く柔らかい光を放ち始めた。
「わかった!」
 チェリーが指輪に飛びついた。その羽に光が満ちる。

 一瞬の間だけ、何かに視界を奪われた。

 再び目を開けると、ティオの右手には何かが握られていた。
「これは……」
「剣っていうか……」
「……どう見ても弓じゃねえか」
 レナードの指摘は正しかった。白地に水色のラインが入った弓と、そこに添えられた桜色の矢。武器に姿を変えても、それは間違いなくチェリーだった。
 使い方が分からず戸惑っているティオに、スピカが手を添えた。
「そういえば、リゲルが前に言ってました。妖精の親が聖者を兼ねた前例はない……何か理由があると思うんだけど……この子が選ぶべき人は、別にいるんじゃないかな」
「だから伝説の通りにはならなかった……」
「多分。とにかく、この子の──名前つけてもらったのね──チェリーの、判断を信じてみましょう。この形になったのにも、やっぱり理由があるのよ。きっと」
 ティオは添えられた手のなすがまま、弓を左に持ち替え、弦を引いた。
 空高く舞い散った傘の破片が瓦礫をはねのける。低いうなり声が聞こえてきた。
「どこを狙う?」
「とりあえず頭を狙って! 少しくらい外しても構わない、とにかく当たればいいんだから!」
 幸いにもルークの叫び声はかき消されなかった。
「分かった、やってみる。……チェリー、行くよ!!」
(リゲル……痛かったらごめんね、でもすぐに……助けるから)
 矢の先端がベテルギウスに向けられてすぐ、ティオは右手を放した。しかし初心者だけあって、矢はまっすぐ飛ばなかった。
「ダメか……」
 が、その矢が地面に刺さる直前、
『みゅううっ!!』
 突然鏃(やじり)が向きを変え、元の目標を目指して急上昇した。間一髪のところで相手にかわされたが、矢の動きには確かにチェリーの意志が働いていた。
(これだったら、適当にやっても当たるかもしれない……)
 ティオの手元に淡い光が生じ、2本目の矢が現れた。今度はスピカの手を借りず、自力で矢を放った。
 やや上向きすぎる軌道に、向かってきたベテルギウスが重なった。
「行った!」
「お願い、当たって!」
 誰かの祈るような叫びとほぼ同時に、相手の動きが止まった。
 渦巻く炎の中に1本の矢が留まっている。
 それが爆発したのだろうか。
 目もくらむ光の洪水が、全てを飲み込んだ──


<神の涙の一滴(ひとしずく)は
 選ばれし者のもとへ下る
 聖域へ導く灯火となり
 この世の混沌を打ち砕くために

 闇の化身は万の月と共に
 死の淵よりよみがえる
 聖なる光を受けた者と
 再び剣を交えるために──>


 ティオは白い空間に立っていた。
 誰もいない。自分の姿だけが青白く浮かび上がっている。
(ここは…………)
 両手で箱を抱えていることに気づいた。きらびやかな装飾の箱を、そっと開けてみた。
 中身は丸めた布と、その上に安置された卵が1個。大きさは鶏の卵より一回り大きいくらいで、淡いピンク色の光を放っている。
(……そうだ。これは、僕が預かった……卵)
 最初の不可解な出会いから、もうすぐ半年が経つ。全てがあっという間だった。
 不思議な力を手に入れて、納得できないまま敵と戦わされた。
 友達を幾度となく巻き込んだことに苦しんだ。
 一方で新しい友達も出来た。
 夜が寂しくなくなった。
(いろんな事があったなぁ……)
 箱の内側に刻まれた金色の文字はやはり読めない。内容はどこかで聞いたような気がするが、思い出せなかった。
 ふと誰かの気配を感じて、顔を上げた。

 青白い光に照らされた、自分と同い年くらいの少女がいた。

(………………)
 名前も顔も知らない。でも、どこか懐かしいように感じた。
 ティオは自然に、両手を前へと差し出していた。少女は戸惑いながら箱を受け取り、顔をほころばせた。
 途端に、全てが白に飲み込まれて見えなくなった。
(いいんだよね? これで……そうだよ。きっと、卵は彼女の物なんだ)


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