エピソード 〜花開く奇跡〜


 眠りから覚めた侵入者が数人の警察官によって「現実の悪夢」へと連れていかれるさまを、ティオは自室の窓から見物していた。
 ここはどこだ、などと騒ぎ立てる声が聞こえる。敵に利用されていた哀れな男。泥酔か嘘つきか、とにかく適当な状況説明が付いて、適当な処分が決まるだろう。
「痛いのも治まってきたし、どうしようかな。……よし」
「みゅう?」
 ティオは再びベッドに横たわり布団をかぶった。
「もう少し寝てよう、病人になってれば母さんが何か作ってくれるかもしれない」
 隣にいたチェリーも巻き添えになり、温もりに包まれてやがてうとうとし始める。
 家事をさぼれるという最近では滅多に得られない機会を、もう少し手元に置いておきたい。ささやかな願いを胸に寝たふりをするつもりで、本当に眠ってしまった。


 「このまま上手くいってくれよ……巣立ちには時間がかかるって言うし」
 リゲルの真横を追い抜いたパトカーが遠ざかっていく。同じ方向を目指しているといっても、徒歩の人間が時速数十キロに追いつけるはずはないし、追いかけるつもりもない。泥棒と警察官を乗せた車はあっという間に見えなくなった。
 冷たい向かい風が、若葉の色をした前髪を揺らす。通行人の視線にはもう慣れている。
(目立つのは分かってるけど、切るわけにもいかねえんだよな……)
 病院からティオの家に行ったときの道を逆にたどっているのは、もう一度レイに会うためではない。来る途中に見つけたオープンカフェをのぞき込み、奥にいる人が「他人の空似」であることを確かめると、もう用事はなくなった。
(まさか……な)
 本物の、懐かしい人の姿を思い出しながらその場を離れたリゲルの片足に、カサカサ音を立てながら触れる物があった。見ると花束が落ちていて、彼はそれを危うく踏みそうになっていた。派手すぎず地味でもない花束は、さっき通ったときにはなかったものだ。
 顔を上げると、すぐ近くの路地裏から罵声が聞こえた。


 大通り沿いの路上で向かい合う2人。色黒で背の高い若者と、片手に花束を持った茶髪の中学生。
「相変わらず、謝る気はないんだな。年上の忠告には従っておくもんだぜ?」
 2年以上前のことを、今でもここまで恨んでいるなんて絶対どうかしてる。レナードは軽蔑を込めた視線で、自分を取り囲む連中をにらんだ。
 十数人の中でもひときわ体格の大きい──そして態度も大きい──男が詰め寄る。以前会ったときに比べ、外見には多少の変化が見られるが、中身はちっとも成長していない。
「……確か前もこうやって……何が欲しかったんだっけ? ああ、金か」
「前は、な。でも今は違う、あの時の屈辱を晴らせればそれでいい」
 ここが人通りの多い場所であることを気にせず、一発殴らせろと遠回しに伝えてきた。
 2年前、先方の要求を断ったレナードは殴りかかってきた相手を返り討ちにした。その後何回か復讐と称した襲撃を受けたが、結果は同じ。今度こそ。十数人の男達は思い思いの構えを取っている。
 喧嘩を吹っかけられた側はとりあえず花束をその辺に投げ捨て、走って路地裏に逃げ込んだ。人目に付くところで乱闘騒ぎを起こすと、黙っていないであろう人物に最低1人の心当たりがある。
「逃がすか!」
 もちろん相手は追いかけてくる。直後、目の前が行き止まりであることに気づき、レナードは一瞬だけ自分の不運を呪った。
 若者の集団が、目の前の1人に向かって拳を振り上げた──その時。
「やめとけ、どうせ結果は見えてるんだろ?」
 集団の一番後ろにいる誰かが言った。志気をそがれた彼らが振り返ると、そこには見慣れない顔があった。鮮やかな緑色の髪が、周囲の目を引いている。
(いいな、あの色……どうやって出したんだろう)
 レナードの頭にとっさに浮かんだ考えは、数秒前まで先頭にいた若者の怒号によってかき消された。邪魔されたばかりか一番認めたくないことをはっきりと言われ、相当頭に来ているらしい。従えている同志に道を空けてもらい、謎の男に詰め寄る。
 ほぼ同時に、男は後ろ手に隠していたものを正面に向けた。
「………………!!」


 リゲルの手の中に握られたホースの先端が、水の勢いで上下に揺れる。飛沫の向こうにゆがんで見える情けない顔は、放水が止まった後も苦しそうに見えた。
「……てめえ、よく……も……」
「目、醒めたか?」
 手元にある水量調整のコックをひねる仕草をして、逆らうようならもう一度、とアピールしてみせる。ある意味、腕力に訴えるよりたちが悪いかもしれない。相手がまだ何か隠していることを直感で悟った若者は、仲間に警告するためにもう一度向きを変えた。
 しかし、警告を聞ける相手はいなかった。
「どうする? 俺ならいつでも相手してやるけど」
 わざとらしく両手の汚れを払い落とす少年とリゲルの目があった。
 2人の間にいたはずの十数の人間は、既に全員が気絶させられていた。それも見た目にはかすり傷1つない状態で。
「………………」
 一見優しい視線。絵に描いたようなスマイルを保つ2人。そこから逆に恐怖しか感じなかった若者は、動かなくなった仲間を無視して大通りへ飛び出した。
「覚えてろ……っ」
 捨て台詞も後ろ姿も、それまでの自信と優越感が見当たらないものだった。そんな彼に「2度と来るなよ」といって手を振り、その場を去ろうとした少年に、リゲルは軽く水を浴びせてやった。
「うわっ、冷た……いきなり何すんだよ」
「忘れ物だ。これ、お前のだろ」
 さっき拾った花束を投げてやると、少年は首筋に当てていた手を慌てて伸ばし、何とか地面に落ちる前に受け止めた。


 時計と記憶を照らし合わせる。病院が決めた面会時間に間に合わなければ、ここまで歩いてきた時間が無駄になる。レナードは受け取った花束を手に、早足で歩き始めた。
(何やってんだ、俺は……こんな所で油売ってる場合じゃないってのに……)
 後輩の見舞いという本来の目的を忘れてはいけない。例えそれがジャンケンで決まったものだとしても。
 着くまでの間にさっきの奴が戻ってこないといいけど、などと考えていると、周囲がやけに騒がしいことに気がついた。道行く人が皆、自分の後方を指して何か言っている。
「見て、アレ……どうなってるの……?」
 レナードは不思議がる言葉につられて肩越しに後ろを見たが、よく分からない。体全部の向きを変えて初めて、騒ぎの全体像がつかめた。
 花束を拾った男が、先程と同じ位置に立っている。しかし問題はそんなことではなく──彼の頭上高く、ちょうどこの辺りで一番高い建物の屋上に相当する高さを、無数の水滴が漂っていた。
(あいつの仕業なのか? ……そうだとしたら一体何者なんだろう……)
 本人に直接尋ねてもよかったのだが、レナードは自分がそんなことをする余裕がないことを知っている。表面上は無視して、しかし実はとても気にして、怪奇現象の現場から離れた。


 病院のロビーは外来と入院の患者、面会に来た人、医師や職員などが大勢いるために込み合っている。賑やかな空間の一角に置かれた電話の受話器を、レイが握っていた。
「僕の方は明日にも退院できそうなんだけど……そっちは?大丈夫?」
『大丈夫だよ。でも動けるようになったからって、2人とも会社に戻らなくても……』
「え?」
『いや、何でもない。それより空を見てよ、さっきチェリーがすごいものを見つけたんだ』
 電話口の向こうから話しかけてくるティオは、窓際にいるらしい。風の音が聞き取れる。
「分かった、見てみるよ……何? ああ、そうだね……じゃあね……」
 二言、三言交わしてから電話を切ったレイは急いで自分のベッドに戻ろうとして、行く手をふさぐようにして立っていた誰かとぶつかってしまった。
「ごめんなさい……あ、先輩」
 後輩を見下ろし、にやりと笑うレナード。規定の時間ぎりぎりに滑り込んだ彼はそのまま病室まで案内されたが、持ってきた花で飾るはずの花瓶には既に「先客」がいた。
「これも一緒に入れられるかな……それにしてもティオは何を……?」
 レイはもらった花束をサイドテーブルに置くと、親友に言われた通り窓の外に顔を出した。学校の方角に目を向けると、確かに奇妙な光景がはっきりと見えた。
「……うわぁー……確かにすごいや、これは……」
「雨も降ってないのに虹が見られるとは、世も末だな」
 大通りをまたぐように架けられた七色のアーチを、現れてから消えるまでの数十分で何人が写真に収めたことだろう。この光景が出現した大体のいきさつを知っているレナードは、もう何度か見た虹からテーブルの上へと視線を移した。
(変わってるといえばこれも、誰が持ってきたんだか知らねえけど……)
 花瓶を占領している数本のヒマワリは温室育ちとも考えにくいし、どう見ても季節外れの印象しかない。夕陽に照らされ色あせて見える花を端に寄せ、自分が持ってきた花を押し込むと、余計に違和感が増してしまった。
「……先輩?」
「あ、そういえばお前、カナヅチなんだって? どうして川に飛び込んだりしたんだよ」
「誰から聞いたんですか!?」
 慌てたレイは思わず大声を出してしまい、後で巡回に来た看護婦に怒られた。


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