[ Chapter12「Vの悲劇」 - G ]

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 サイガが西東京警察署を訪れたのはこの日が初めてではなかった。といっても「初めて」は小学校に上がる前、母親の運転免許の更新についてきたときの話で、問題を起こしたかどで呼び出されたことは今のところなかった。
 そして巡ってきた「二度目」もまた、彼の役割は付き添いに過ぎなかった。
 はずなのだが。
「今の話を確認したいんだけど。襲ってきたのは向こうで、あなたは掴んだ手をふりほどいて逃げただけ。合ってる?」
「はい」
 扉を背にして座るショートカットの女性、確か稲瀬と名乗った刑事にきつい目で見られたとき、サイガは自分が連続通り魔事件の容疑者リストに載ってしまったことを悟った。それも自ら手を挙げたようなものだった。
 視線をそらせば薄汚れた壁が目に入る。取調室は建物の外観と同じぐらい年季が入った色合いの小部屋で、テレビドラマで見るものより狭かった。
 扉が開いて、背広姿の若い男性が入ってきた。その人も刑事なのだろう。彼は稲瀬の背後から真横に回り、彼女とサイガを隔てる小さなテーブルに紙を置いた。季花高校とその周辺地域を網羅した地図だった。
「ありがとう。藤井くん、ついでにもう一個お願いしていい?」
「何でしょうか」
 男の刑事が何か耳打ちされ、足早に出て行った。どうやら稲瀬の方が立場は上らしい。
 金属がこすれる音と共に扉が閉まった後、稲瀬はサイガの手元に地図を差し出した。
「もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「……はい」
 ニュータウン内で発生した連続通り魔事件は最近なりを潜め、世間からは早くも忘れ去られつつあった。だが警察は捜査を続けていて、情報提供を求めるポスターを新しく作り直したばかりだった。
 そんな折にサイガは警察署を訪れた。呼び出された篠原が奥へ連れて行かれ、サリエルが音もなくどこかへ消えた後は、言われた通りに帰るつもりだった。が、しつこくまとわりつく腕を振り切れず、結局祐子と一緒に休憩スペースで篠原を待つことになってしまった。
 並んでベンチに座ってから間もなく、サイガは祐子がやけに体を密着させてくることが気になりだした。最初は居眠りも疑ったが、次第にその動きに違和感を覚え、やがて謎の危機感に背筋が震えた。
 まさにそんなとき、通り魔の情報提供を求めるポスターが目に飛び込んできたのだ。それから最初に通りかかった警察官に声を掛けると、証言者の出現にやや興奮気味のリアクションの後、すぐに祐子から引き離してくれた。刑事たちへの引き継ぎも迅速だった。
「さっきの話だと、場所はだいたいこの辺ね?」
「えーと、確かこの辺に今、情報提供の看板立ってたから……もうちょっとこっち寄りの」
 説明を求められているのは、先月学校からの帰り道に襲われたときの状況と位置関係だ。
 地図の情報と照らし合わせるための質疑は結局、この取調室で最初に語った話をそのまま繰り返す作業になった。証言の二巡目が進んでも稲瀬の態度や目つきは変わらなかった。
「そこで出会ったのが?」
「知らない男でした。具合悪そうにしてたけど急に立ち上がって」
「服装は?」
「ジャージの上下です。色は、暗かったのでよく分かりません」
 サイガは言いかけた色名をとっさに取り下げ、無理のない説明に切り替えた。思い出すたび違う色だと感じるのだから正確なところは覚えていないのだろう。
 下手なことは言えない。この部屋での発言はすべて記録されているのだから。
「ちょっと話は変わるけど。事件のときも今と同じ髪型だった?」
「は?」
「近くの防犯カメラに映っているかもしれないから、一応確認させて」
「そうか……」
 不意打ちのような質問を半ば強引に飲み込みつつ、サイガは心の中のカレンダーをめくり、苦い記憶を引っ掛けて吐息をこぼした。
「……この前染め直しました。前はブリーチ入れて軽く色足した程度の金髪で」
 稲瀬の目に閃光が走った。
 待ち望んだものを見つけたように女刑事が顔を上げた直後、先程と同じように扉が開いた。藤井と呼ばれていた男は抱えてきたものを稲瀬に見せて確認すると、今度は退出せず先輩の脇に控えた。
 小声での打ち合わせの後、後輩の手で地図が回収され、新たに持ち込まれた封筒の中身がテーブルに並べられた。年代もタイプも異なる男たちの顔写真が六枚あった。
「この中に、あなたが見た人に似ている人はいる?」
 稲瀬が慎重な口ぶりで尋ねた。
 サイガは端から順に写真を確かめた。顔見知りはいない。見覚えはあるかと言われると、どの人にも覚えがないようで、引っかかる部分もあるような気がしてきた。
 この中に犯人がいるのか。それとも。
「確か、あのとき、見たのは」
 聞こえる息遣いの中に緊張感と威圧を感じつつ、サイガは混乱した記憶の中からぼんやりした破片を釣り上げ、一番近い印象の写真をそっと指さした。
 刑事二人がほとんど同時に息を詰まらせた。
「ホントに、なんとなく、こういう感じっていうだけで。目はこんな眠そうじゃなかったし」
「充分よ、ありがとう。藤井くん、もう一つの出して」
「はい」
 その証言は稲瀬に大きな自信を与えたらしい。彼女は今にも快哉を叫びたいところをこらえる顔で、手早く写真を回収し、後輩に次の資料を要求した。
 続いてサイガの前に出されたのは一台のノートパソコンだった。持ち込まれる直前まで別室で使われていたのか、スリープ状態から回復した画面にすぐブラウザが表示された。
「これを見て」
 ウインドウの中には、黒い格子の壁紙と血糊のような画像、おどろおどろしいフォントの文字。情報科の先生お手製のテキストを思わせる安っぽいホームページに、血なまぐさい単語がちりばめられていた。
 サイガが白文字の文章を読もうとした瞬間、稲瀬に尋ねられた。
「あなたはこれ知ってるわよね?」
「いいえ」
 声とも鼻息ともつかない変な音がした。
 驚いて顔を上げたサイガの正面で、稲瀬が手で口元を押さえるポーズを取っていた。しかし彼女はすぐに手を下ろし、一度だけ深呼吸をしてから姿勢を正した。
「あのね、別に隠さなくていいのよ。私達には一応守秘義務っていうものがあるから。お父さんお母さんにバレて怒られることはまず、今のところ、ないから。正直に教えて。本当は見たことあるんでしょ?」
「見たことありません。今初めて見ました。これがどうかしたんですか」
 念押しを押し返された稲瀬の表情が固まった。
 先輩の後ろで藤井が必死に笑いをこらえていた。彼はサイガに見られていることに気づくと、今の自分の仕草にリアクションをしないよう視線とジェスチャーで懇願してきた。
「……本当に?」
「本当に」
「高校生ってこういうのに興味持つ子が結構多いみたいなんだけど」
 女刑事はなおも食い下がる。肯定してもらわないと話が進まないのだろうか。
「どうだろう、確かにこういうの好きそうな友達はいますけど、俺は別になんとも」
「だったら……普段はどんなもの見てるの? パソコンで」
「全然見ないです」
「全然」
「はい、全然。俺の家パソコンないし、インターネットもないんで」
 取調室がパソコンの電源を落としたように静まりかえった。
 二人の刑事の挙動から当惑を汲み取ったサイガは内心でため息をついた。驚かれるのは初めてではない。高速通信が普及し学校で情報リテラシーを教えるこのご時世、電話回線を電話にしか使わない家庭は既に少数派なのだ。
「学校の授業では……見るわけないか。あっ、そうだ、ケータイは?」
「一応持ってますけど」
「そっちでもインターネットは見られるんじゃないの?」
「あー……一応使える奴ですけど、使ってません。パケット代かけたくないんで」
「えっ、どういうこと」
「稲瀬さんちょっと落ち着いてください」
 ついに後輩が声を出して割り込んだ。先輩は発言権を取り上げられ、証言者には追加の説明が求められた。
 サイガは聴取の目的に疑問を感じつつ、自分の家庭に経済的余裕があまりないこと、携帯電話は遠方に住む叔父が買ってくれたこと、通信料は将来返済する約束であることを話した。説明が進むごとに稲瀬の目の輝きはくすみ、声のトーンも落ちていった。
「なんなら警察のチカラで確認とってください。そういえば、このホームページって事件と何か関係あるんですか」
「それはちょっとお話しできないんですよ。本当に分からないのであれば、すみませんでした、しつこく聞いてしまって」
 フォローする藤井の横で黙ってノートパソコンを閉じる稲瀬の手は、先ほどそれを受け取った手と同じには見えなかった。