第1話 〜向日葵〜


 街にいつもと変わらない朝が訪れた。
 暖かい日ざし。通りを吹き抜ける涼しげな秋の風。小鳥のさえずり。散歩を楽しむ人。自動車のエンジンの音がたまに聞こえるが、それほど不愉快には感じられない。
 子供にとっては学校へ行く時間だ。数分前までは友達同士のおしゃべりがあちこちで聞かれたが、今は全く聞こえてこない。声の主はそろそろ学校に着く頃だろう。
「やばいなぁ〜……」
 誰もいなくなった通りで、ティオは走りながら1人つぶやいた。彼はこの町に住んでいる少年で、先程道を歩いていった子供達と同じように中学校に通っていることは制服を見ると分かる。黒い髪と瞳、平均的な体格のごく普通の子供である。ただ、昔から朝が苦手で、遅刻する瀬戸際の時間にならないと目を覚まさない。おかげで彼は1年生だというのに、校内で最多遅刻回数の「常習犯」として有名だった。
 腕時計を見る。8時27分。少しでも気を抜いたらまた遅刻してしまう。今学期に入って何回目だろう。数えたくもない。
 住宅街を抜けるとそこには大きな公園があり、その中央を一直線に貫く道を突っ切ると学校の正門の前に出る。ティオは公園に入ったところで走るスピードを上げ、もう一度腕時計に目をやった。門が閉められる時間が刻一刻と近づいている。もう時間がない。焦りがさらに増したその時。
  リ─ン……
 どこからか鈴の音が聞こえてきた。普通なら立ち止まるところだが、今はそんな余裕はない。ティオは音を無視して走り続けた。あと少し、あと少しで着く。
  リ──ン………
 また鈴が鳴った。今度は前より長く深く、大きな音で周囲に響き渡った。しかし公園を歩く人達は誰も反応しない。ティオはさすがに奇妙に思い、走るのをやめた。
(あんなに大きな音なのに……どうして誰も気付かないんだろう?)
  リ───ン…………
 これで3度目。ティオは鈴の音がどこから聞こえるかを探ろうと耳を澄ましたが、効果はなかった。はっきりどこからとも言い難く、一度にあらゆる方向から音が飛んでくるようにしか聞こえなかったのだ。ティオはもう一度鈴が鳴ってくれないかと願った。この不思議な音の正体を知りたかったからだ。しかし、「もう一度」はなかった。次に彼の耳に入ったのは紛れもなく学校のチャイムの音。
「そうだ、こんな事してる場合じゃないんだ!」
 急に意識が現実に引き戻され、ティオは全速力で並木道を走り始めた。広場に据えられた遊具が、朝の光を受けて輝く噴水が、彼の横をすり抜けて後方に飛んでいく。
 薄暗い並木の向こうに光が見える。学校はその先だ。今日は公園の中でチャイムを聞いた。つまり遅刻は決定。それでも早く着いた方がいい。別に授業をさぼるつもりではないのだから。


 ティオは数分も経たないうちに並木道を抜けた。しかし、
「あれ……?」
 そこは学校の前ではなく、それどころか見慣れた町でもなかった。
 上は青空。足下は黒い土。両脇には無数のヒマワリが植えられていて、競うように大輪の花を咲かせている。そして目の前には1本の道があり、ヒマワリの間を縫ってずっと先まで延びていた。
「変だなぁ、道を間違えたか……ああっ!!」
 振り返ると、自分がたった今走ってきたはずの並木道が消えていた。その代わり、やはりヒマワリが地面を覆い尽くしていた。太陽がまぶしいのだけは同じなのだが、それ以外はさっきまでいた所とは明らかに違う。
「……ここ……は……どこ?」
 三方を黄色の花に囲まれたティオは仕方なく目の前の道を歩き始めた。緩やかな上り坂で、道の脇はどこを見てもヒマワリしか見当たらない。
(よくここまで育ったな……手入れも大変だっただろうなぁ……)
 近所にガーデニングを趣味にしている人がいて、苦心して育てたという自慢の花を以前見せてくれたことがあった。その人には悪いけど、こっちの方がずっときれいだとティオは思った。確か花は一輪咲かせるのにも手間と技術と道具がいろいろ、大変だと言っていたような気がする。それなのにここの人達は数え切れないほどの花を見事に咲かせている。よっぽど暇なのか、それともこれは全部売り物?
 そんなことを考えているうちに上り坂が終わり、ティオは丘の上に立っていた。周りを見回すと、少なくとも半径数百メートルくらいの範囲は彼と同じ背丈ほどに伸びたヒマワリに覆われ、ずっと遠くには茶色や灰色の箱のような物がたくさん見える。何かの建物だろうか。そしてティオが歩いていた方向には、道をふさぐようにして1軒の小屋が建っていた。
(あそこに誰かいるかも……そしたらここがどこかも分かるかな)
 ティオは元気さを取り戻し、走り始めた。


 丘の上から見つけた物は、思ったより小さな丸太小屋だった。窓から中をのぞき込んでみたが、椅子が1脚とテーブルが1つ、そしてその上に置いてある小さな箱しか見えなかった。人の気配はない。
「留守かなぁ……」
「そんなところで何やってるんだ?」
「!?」
 いつの間にかティオの横に1人の青年が立っていた。鮮やかな黄緑色の髪は膝くらいまであるだろうか、後ろで1つに束ねて三つ編みにしてある。色白で青い瞳を持ち、ティオより背が高い。青年は作業着のポケットに両手を突っ込み、窓に貼り付くようにして中を見ていたティオを見下ろしていた。
「あ、あの、僕は別に……」
「その格好は明らかに怪しい。本当なら不審者はすぐそこへ放り投げてるところだけど……」
 青年はヒマワリ畑に目をやり、すぐ視線を戻してからにやりと笑った。よく見ると小屋の周りだけ黄色いバラの生け垣が作られ、ヒマワリが入ってこられないようになっていた。
「お前だから許す。お前を呼んだのは他でもない、この俺だからな」
「え……?」
「この音を聞いただろ?」
 彼がポケットから片手を出すと、そこには小さな金色の鈴が握られていた。軽く振ると音が鳴った。
  リ──ン……
 それは紛れもなくティオが公園で聞いたものだった。
「えっ……それじゃあ……あの時の音は……」
「誰も反応しなかったはず。この音はな、俺が頼もうとしてる仕事をこなせる奴にしか聞こえないんだ。つまりお前は条件を満たしてることになる。早速だけど俺の話を聞いてもらえないか?」
「ちょっと待ってよ、僕にも都合ってものがあるのに」
 強引に話を進めようとする青年をティオは慌てて止めた。話をするだけなら彼がティオの元に来ても同じなのに……というか、できればその方がありがたかった。それなのに彼はティオを、よりによって一日で一番忙しい時間に呼び寄せた。これはどうしてなのか。ティオは青年に説明を求めた。
「あー……なるほど、お前の言うことも一理ある。でもこっちの話はここでしかできない。他の場所では立ち聞きされたりするかもしれないんだ。でも急いでるならしょうがない、大事なところだけ簡単に説明するか」
 青年はティオにその場で待っているようにいい、小屋の中へ入っていった。
 1人残されたティオは急に不安になった。
 遠くの景色を含めて考えても、今いる場所は自分の住んでいる町とは全く違うし、両者の距離はかなり離れているに違いない。もし近くにこんな広いヒマワリ畑があって、しかも季節はずれの時期に咲いているというのなら、とっくの昔に有名になっていたはずだ。それなのにそんな話は一度も聞いたこともない。
 それに今の人。緑の髪という時点で既に怪しいし、その行動にも疑問に思える部分がある。鈴を鳴らしただけで自分をいきなりここへ連れてくるなんて、まるで……
「魔法、だな」
「!?」
 いつの間にか青年が戻ってきていた。足音も気配もなかったので、ティオは近づいてくる影に気がつかなかったのだ。
「い、今、何て……」
「魔法、少なくともお前達がそう呼んでいる力。お前を呼び寄せたのも、この花畑を造ったのもな」
「えっ……じゃあ、これだけの花を1人で?」
「いや、俺は何もしてない。植えたのは最初の1本だけ。あとは放っといたら勝手に増えてた」
 ティオはもう一度ヒマワリの大群を見た。1本の何万倍あるか分からない数の上を風が吹き、金色の波を作った。
「……おっと、話がそれた。お前に頼みたいのは──」
 青年は脇に抱えていた箱をティオに渡した。それはさっき小屋の中にあったものだった。百科事典くらいの大きさで、いかにも宝箱といった感じの形をしている。
「これだ。これを預かって欲しい。本当は最後まで俺が守らなきゃいけない物なんだけど、どうしてもそれができなくなったから」
「……何で?」
「ちょっとしたわけがあってね。でもそれは今話すことじゃない……あっ、気をつけろよ、落としたら割れる」
 ティオは話を聞きながら、きらびやかな装飾の箱を開けようとしていた。バランスを崩して箱を落とさないよう青年が手を添えた。
  カチッ……
 開けてみると、中身は卵が1個とそれを包む布だった。大きさは鶏の卵より一回り大きいくらいで、薄いピンク色をしている。入っていた箱がもっと大きかったので、ティオは中身の小ささに驚いた。
「これ、何の卵?」
「それがな……ん?」
 青年が突然顔を上げた。
「まずい……ここも安全じゃなかったか」
「え? 今何て言っ……」
「危ない、伏せろ!」
 同時に青年はティオの肩をつかみ、無理やり地面に押しつけた。卵を抱いたままうずくまる形になったティオは、自分の頭上を通過する影を見た。
「あれほど害虫用の罠を仕掛けといたのに……どうやって入ったんだよ」
 青年が何か言った。ティオにはそれが聞こえず、気になってゆっくり体を起こしてみた。
「…………!!」
 ティオの目の前に黒い物体が置いてあった。いや、そこにいた。それは明らかに生き物だった。
 黒い座布団に6本の足と触角をつけたような、巨大な虫。
 周りを見ると、ヒマワリの根本で何十個もの赤い目が光っている。仲間だろうか。
「………………」
 ティオは動けなくなった。全身の震えが止まらない。はっきり言って虫に恐怖を感じたのは初めてだった。普段なら平気で手づかみにできるが、今回は勝手が違う。体が動いたとしても逃げることができない。気配と音で分かる──今、自分はこの得体の知れない虫の群れに囲まれている。
 青年はティオをかばうように脇に立ち、片手を上に掲げていた。そして驚いたことに、彼の体は紫色の光に包まれていた。
 息を呑んでその光景を見つめるティオの横で、突然虫が宙に浮いた。飛び上がった様子はなく、おまけに地面に着地せず空中で足をじたばたさせている。
「邪魔なんだよ」
 青年が冷たい声と共に手を下ろすと、浮いていた虫も同時に地面に叩きつけられた。
 虫に目立った外傷はなかったが、おびえたのか突然少年に背を向けて走り出した。隠れていた仲間もそれに従った。
  ガサガサ……ガサガサ……
 虫の群れはあっという間に遠ざかっていった。一気に緊張感がほぐれ、ティオはため息をつきながら地面に手をついた。
「何だったんだ、今のは……」
「敵の刺客だ。お前が持ってるその卵を目当てにやってくる」
 青ざめているティオとは対照的に、青年は何事もなかったかのような顔でそう言った。
「えっ……これを食べるの?」
「いや、奪うだけだ。大事なのはこの中身……これから生まれてくるものこそ奴らの狙い。だから誰かが守ってやる必要があるんだ」
「それは分かる。でも僕じゃ無理だよ。君みたいな力は持ってないし……」
「その心配は無用」
 青年は再び挑発的な笑みを浮かべた。
「お前の世界にあんな魔物はいないって聞いてる。少なくともここよりは安全だろ?」
「確かに……」
「それならすぐにここを離れろ。お前もこれ以上怖い思いするのは嫌だろうし。……そうだな、念のためこれを渡しとこうか。お前、利き手はどっちだ?」
「右だけど?」
 地面に座ったままのティオがおそるおそる手を差し出すと、
「分かった」
 青年は差し出された右手首を突然片手でつかみ、もう片方の手をポケットに入れて何かを取り出した。それは銀色の指輪だった。青年はティオの手を自分の方に引き寄せると、中指に指輪を押し込んだ。
「………………」
 ティオは黙ったまま手を見つめた。指輪には豆粒くらいの大きさの宝石が1つつけられていて、それは見る角度によって色が違って見えた。
「それがあれば十分だろう。さあ、帰るといい、急いでたんだろ?」
「……あっ!!」
 ティオは自分が学校へ行く途中だったということをすっかり忘れていた。立ち上がって制服に付いた土を払い、箱をとりあえず鞄の中に放り込み、先ほど来た道を走り出した。だが、青年がそれを止めた。
「引き返しても無駄だぜ」
 青年は首を振り、別の方角を指した。
「どうせ行き止まりだ。正しい道はこっち。悪いな、忙しいのに頼みを聞いてくれて」
 いつの間にか依頼を「承諾した」ことになっていたのに気づいたが、ティオはそれ以上言わないことにした。これ以上文句を言っていたら、その隙にあの虫が戻ってくるかもしれない。とりあえず預かって、次に会った時に返せばいい。
「ところでさ」
 言われた道を行こうとしたティオを、青年が再び呼び止めた。
「どうしてお前はいつも『遅刻』なんだ?」
 ティオは思いがけない質問に面食らった。「今日」遅刻しそうになっている(というか決まっている)ことは確かに話したが、「いつも」といった覚えはない。
「そんなに起きるのが苦手?」
「それは……」
 ティオは正直に話すかどうか迷ったが、言っても害にはならないと判断して話すことにした。
「起こしてくれる人がいないんだ。父さんも母さんも働いてるから早く家を出るし、努力はしてるけどどうも自分一人じゃ起きられないし……目覚まし時計に頼っても限度があるから」
「へぇ〜。……あ、待て。まだ行くなよ」
「まだ何か用?」
 いつまでたっても帰れないティオは、少しいらだちを見せていた。青年は薄笑いを浮かべ、
「空を見ろよ。きれいじゃないか」
 見上げると、確かに空には雲一つ浮かんでいない。視界の端から端までが青空の色に塗られていた。
「でもそれに何の意味が……」
 真上を向いたまま青年に呼びかけたティオだったが、青年の声はなかった。その代わりに返事をしたのは、全く別の音。
(あれ?この音は……)


 ティオが顔を戻すと、そこは見慣れた光景だった。目の前にある学校の正門。振り返ると公園がある。
(これは……一体どうなってるんだ!?)
 車のクラクションの音が鳴り響き、ティオは我に返った。同時に、自分が立っているのが横断歩道の真ん中であることに気がついた。しかも信号は赤。
「うわっ……ごめんなさい!」
 慌てて謝りながら横断歩道を渡りきると、止まっていた車は急にスピードを上げて走り去った。
「おはよう。今日は早いんだね」
 聞き慣れた声がティオの耳に入ってきた。見ると、すぐそばに同じクラスの友達が立っていた。おかしい。彼はいつも早い時間に来ているはずなのに、どうしてここにいるんだろう?ティオは自分の腕時計を見て、それから顔を上げて友達に話しかけた。
「今何時か分かる?時計壊れたみたいなんだ」
「えーと、今は……」
 返ってきた答えは、壊れたはずの腕時計が指す時間と見事に一致していた。それは自分がここにいるはずのない時間──記憶が正しければ、まだ目を覚ましてもいなかったはずだ。念のため日付も尋ねたが、それは自分が今日だと思っている日付と同じだった。
 ということは。
『空を見ろよ、きれいじゃないか』
 遅刻のことを聞いてきた時の青年の顔が、急に脳裏に浮かんだ。その口元に浮かべた微笑みが、自分をあざ笑うように見えたのは気のせいだろうか。
(なんだか厄介なことになってきたな……)
 ティオはため息をつくと、学校の中に入っていった。


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