第11話 〜遠雷〜


 2週間のクリスマス休暇はあっという間に終わってしまった。両親は相変わらず仕事に没頭していたのでティオは家事を休むことができなかったが、それでも普段よりはたくさん遊べたので満足だった。
 しかし、体が休日の生活リズムに慣れたのがいけなかった。1月7日の朝、彼が目を覚ましたのは遅刻しないで済む「理想の時間」の30分後。枕元を見ると、1匹の妖精がハンカチにくるまって眠っている。
「チェリー、起きろ! もう休みは終わったんだ!」
「……みゅ……みゅう〜?」
 目を覚ましたチェリ−は半分閉じた目をこすり、大きく伸びをしてからティオの方を見た。彼女を養育する役目を負った少年は今、大急ぎで学校の制服に着替えている。
「いつもは無理やり叩き起こすくせに……どうして今日に限って寝てるんだよ……」
 ぶつぶつ言いながら部屋を飛び出し、階段を駆け降りるティオ。チェリーはそれを見送ると、ガラスのように透き通った背中の羽を動かし宙に浮いた。勉強机の隅に置かれた小さな鏡に、お気に入りの空色の服に袖を通す妖精の姿が映る。
 ティオの行動は実に素早かったが、それでも彼は焦っていた。朝食の皿が空になるまでに5分。まだ寝ている両親を残し、家の扉に鍵をかけるまでにさらに3分かかった。もう1秒も無駄に出来ない。
「行ってきます!!」
 人目に触れないようチェリーを隠した通学鞄を手に、ティオは走り始めた。歩いて10分足らずの道のりを全力疾走するが、間もなく非情なチャイムが辺りに鳴り響いた。どうやら「遅刻魔」の汚名返上は当分お預けになりそうだ。


 「はーい、席について下さーい」
 新学期最初の大仕事。張り切って教室に入ってきた担任が声を張り上げたが、実際にホームルームが始まるまでには1分半を要した。赴任1年目の新米教師が数ヶ月で、騒がしいクラスをまとめるのに慣れることはやはり難しいようだ。
「……えー、今日は皆さんに、大事なお知らせがあります」
 先生は連絡事項を読み上げると何故か姿勢を正し、改まった様子で話を切りだした。
 クラス中が水を打ったように静まりかえり、全体から1人分をのぞいた数の視線が一点に集中する。
「──────」
 わずかな間をおいて、教室中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「神の涙の一滴(ひとしずく)は、選ばれし者のもとへ下る」
 薄暗い空間に声が響く。いにしえより伝えられた一文を読み上げる、厳かな声。
「聖域へ導く灯火となり、この世の混沌を打ち砕くために……」
 ろうそくの火が揺れ動いた。
 燭台の下で“伝説”を読み上げていた若い男は、何を考えたか突然音読を打ち切り、手にした古文書を閉じた。彼が腰掛ける玉座の周りで、ホコリが盛大に舞う。
 男は暗闇の中にたたずむ誰かに語りかけた。
「お前はどう思う。伝説は始まったのか、それともまだか」
『聖者はいまだ目覚める気配がありません。しかし、ことは既に始まっています。あなたがこの世に生まれたときから』
「そうか。それもそうだな。……ところで、クリスはどうした? 裏切り者を仕留め損ねたそうだが。相変わらず役に立たない奴が多くて困る」
 槍玉にあげられた人物は玉座の男より年上だが、部下である以上、男が敬語を使わないのは当然だった。暗闇に潜んでいる者は少し考えてから、付け足すように報告をした。
『しかし……彼は今、大事な研究をしていると申しておりました。灯火を封じる最上の手段であると。切り捨てるには早すぎます』
「そんなことは分かってる」 男は笑っているようだった。 「だから泳がせているんだ」
 遠くで雷が鳴った。闇の中の気配が瞬時に消え、独りになった男は再び古文書を開いた。


 先生の「告白」から数分後。
 後方の扉が勢いよく開き、クラスメート達が驚いて振り向いたのと同時に、ティオが教室に飛び込んできた。その直後、彼は床に放置された雑巾を踏みつけて見事に滑った。
「やぁ、派手な登場の仕方だねぇ」
 真っ先に飛んできた声の主はジーノで、取り巻きの笑い声がそれに続いた。
「置いた張本人が何言ってるのよ」
 彼の取り巻きの1人バートに睨まれて黙ったジュンの横から、転んだまま座り込んでいるティオに歩み寄る者がいた。見覚えがない顔の少年が、首から下を覆う黒いマントの中から右手を差し出す。薄茶色のふわふわした髪が逆光に照らされ、天使の後光のように輝く輪郭を作っていた。
「君、大丈夫?」
 少年は優しそうな笑みを浮かべながらティオを立たせ、軽く頭を下げた。
「僕はルーク。今日、ここに転校してきたんだ。よろしくね」
 握手を求め、マントの端からもう一度手を出す。中にはちゃんと制服を着ているようだが、やはり不自然さが抜けなかった。でも礼儀が優先。ティオは握手に応じようとしたが、2人の手が触れる直前に鞄がガタゴトと動き出した。
「……ごめん、ちょっと待って……分かったよ、今開けるから」
 ティオが自分の机に鞄を置いて中を開くと、チェリーが勢いよく飛び出してきた。彼女は久しぶりに会う友達の顔を見渡してから、初めて会う人物に気づいてじっと見つめた。
「……みゅ?」
「妖精だ……これ、本物だよね? こんな間近で見られるなんて初めてだよ」
「間近で……って、遠巻きに見たことでもあるのかよ」
「まあね」
 不思議がるジーノに微笑みかけたルークは、妖精の桜色の髪を軽くなでてから、教室の一番後ろに用意された席に座った。
 転校生に注がれる歓迎と好奇の視線を断ち切ったのは先生だった。ティオを呼び出して通算数十回目の遅刻をとがめたあと、ホームルームを再開させた。


 天井から吊された空の鳥かごが、誰も触れていないのにわずかに動いている。それが目立つほど、この部屋は静かで動きがなかった。
   カタッ。
 クリスは空になったワイングラスを瓶の横に置き、部屋の外に立っている人物を呼び寄せた。
「いるのは分かってるのよぉ、黙ってないでこっちへいらっしゃい」
 言われた通りに入ってきたのは、先日“裏切り者”ダイアナを仕留め損ねた男だった。背中の黄色い羽に損傷は見当たらない。
「この真冬になんてことしてくれたのよ、新しい羽探すの大変だったんだから」
 必要以上に大きくわざとらしい声でそういうと、クリスは男に背を向けたまま指示を出した。
「妖精を見張ってなさい。必ずどこかに弱点があるはずよ」
 グラスに半透明の白い液体が注がれた。飲み過ぎじゃないか、と男は思ったが口には出さなかった。主人の足下に積まれた空の瓶が、ストレスの量に比例して増えている。


 始業式の日は授業も部活もないから、誰もがまっすぐ家に帰れる。素直に門の外へ散っていく大半の生徒の中に、ティオは含まれていない。
「預かり物? この子が?」
「そう、それもすごく大事なモノらしくて……絶対に手放すなって言われたんだ」
 教室の椅子の1つに座るティオ。隣に立つレイ。1つ手前の机に腰掛けたルーク。3人の視線は揃って、ジーノやその仲間達と鬼ごっこを楽しむチェリーに向けられていた。
「そんなのが普通にこんな所飛んでて、よくマスコミが騒がないね」
「チェリーが隠れなくて済むようになったのは去年のクリスマス前なんだけど、その頃から怪物が出てこなくなったんだ。だから誰も来ないんだよ」
「でも、学校でこうやって妖精見かけた人が情報を……」
「生徒会が禁止したんだ」
 そう言ったレイの前に、チェリーを捕まえ損なったバートが突っ込んできた。巨体にのしかかられそうになるところを上手くかわし、説明を続ける。
「理由は一応防犯上の問題……写真撮ろうとか捕まえようとか、そういう理由で知らない人が学校に押し掛けてくるのは困るからだって。先輩が言ってた」
 「妖精にもプライバシーはある」。そう考えた生徒会副会長のレナードが学校側に働きかけた結果、不審者の侵入防止という意味での通達が学校中に出された。そのおかげでこの小さな妖精は事実上クラスの一員として認められ、同時に少なくとも校内では安全を保証されたのだった。
「……まあ、そういう話がなくても、普通の大人は妖精なんて信じないとは思うけど」
 ティオは苦笑いを浮かべた。
 考えてみれば彼の周りには、その「普通」に当てはまらない大人が何人もいる。本や映画の挿し絵の中、あとは映画やらテレビやらでしかお目にかかれないはずの妖精が実物として現れたのに、大して驚かなかった人々。
 ルークの頭をかすめて通り過ぎたチェリーは、疲れ切った様子のジーノを見て首をかしげた。
「みゅう? もうおしまい?」
「空飛ぶなんてズルイ……捕まえられるわけないよぉ」
 彼が従える取り巻きも、全員が息を切らして座り込んでいる。心配した通りに欲を抱えた大人が押し掛けてきたとしても、チェリーはこの調子で逃げ切るのかもしれない。
「そう言えば、そのマント脱がないの? 暑くない?」
 レイは黒いマントに身をくるんだままのルークに尋ねた。冬とはいえ暖かい室内で、そんな物を着る必要はない。しかしルークは「平気」と言って首を横に振った。


 「ちょっと、サマンサ、どこ行くの!?」
 制止する友達の手を振り切り、サマンサは生徒会室を飛び出した。
(副会長……この忙しいときに一体どこへ……)
 ホームルーム終了から30分。定例の会議を行うはずなのに、メンバーが揃わない。一向に現れない最後の1人を捜し始めた生徒会長は、手始めに通りかかった人に片っ端から声をかけていった。しかしまともな手がかりは得られない。
「レナード? いや、見なかったけど」
 サマンサは似たような言葉を続けて聞かされ、怒りを隠しきれなくなってきた。
 こんな時に彼が行きそうな場所は──
 考えがまとまった頃には、彼女の足はまっすぐ1年生の教室に向かっていた。2階の東側の端。そこにいなければ探すべき場所はほとんどない。1階には玄関と応接室の他、図書室や保健室などがあるが、彼はそんな所には滅多に顔を出さない。そして地下の食堂は閉まっている。
 少し前から降り出した、大粒の雨に打たれる廊下の窓。そこに映った冴えない顔から目をそらす。
 妖精が“在籍”する教室の前まで来たところで、突然扉の陰からオレンジ色のゴムボールが飛び出してきた。廊下を跳ね回るボールを追って、縦横無尽に飛び回るチェリー。追いつけそうで追いつけない。目の前に来たボールをサマンサが捕まえると、チェリーはその手にしがみついてきた。
「うみゅ〜……」
「ごめんなさい、邪魔してしまって。でも、このボールが誰かにぶつかって、怪我でもしたら大変でしょう? 遊ぶのでしたら教室の中だけにしてくださいね」
「どうだ、追いつけないだろ。……あ、先輩」
 ボールの持ち主であるジーノが顔を出した。とりあえず生徒会長に会釈をしてからチェリーをにらむ。
「こら、いつまで持ってんだよ、返せ!」
 ボールを抱えたまま天井近くまで逃げたチェリーに向かって、ジーノは届かない手を伸ばした。妖精の存在をクラスメートの前にさらした彼はその日以来、毎日のように妖精にもてあそばれている。
「チェリー、そろそろ帰ろう?」
「はーい」
 帰り支度を終えたティオに呼ばれると、チェリーは素直に従った。その手を離れたゴムボールがジーノの頭を直撃したが、誰もそのことに気づかない。
 サマンサは「もしかしたら」という淡い期待を抱き、隣を通過しようとしたティオに尋ねた。
「あなた、この辺で副会長を見かけませんでしたか?」
「いえ、見てません」
 あっさり首を横に振られ、肩を落とすサマンサ。あきらめて戻ろうかと思ったその時、突然後ろから声をかけられた。
「レナード君を捜してるって言ってたよね?」
 それは生徒会の顧問の先生だった。
「さっき見かけたんだけど……誰かを追いかけて、屋上の方へ走っていったよ」
「本当ですか!? ありがとうございます! ……屋上だなんて、こんな時に一体何を……」
 サマンサは愚痴をこぼしながら、屋上に通じる唯一の階段を目指して走っていった。普段は廊下を走るなと口を酸っぱくして言っている本人が、湿気で滑りやすくなっている廊下を疾走している。生徒会長の慌てぶりを見て心配になったティオは、レイと共に彼女の後を追った。
 その時ルークだけが、手を振って3人を見送る先生の意味ありげな笑みに気がついた。


 階段の終着点に一番乗りを果たしたのはティオだった。後輩の心配通り転倒したサマンサは走る気力を一気にそがれた上、足が痛くて歩くこともつらい状態になっていた。
「本当に、大丈夫ですか……?」
「いえ、わたくしは平気です。それより……鍵は開いていますか?」
 レイが扉を引いてみるとあっさり開いた。その先に「ある物」を見つけ、言葉を失う。
「何かあった?」
「……見ない方がいいと思うけど……特に先輩は」
「みゅう?」
 見ない方がいい、そう言われると余計に見たくなるものである。ティオとチェリーは開け放たれた入り口から一歩踏み出そうとして──表情をこわばらせた。彼らの後ろではようやく階段の最上段にたどり着いたサマンサが、同じものを見て卒倒した。
(あれは確か……あの日に、僕達を襲ってきた奴だ……)
「あの日」。生まれる前のチェリーを納めた卵を、謎の少年リゲルから受け取った日。卵の中身が何なのかと尋ねた直後に、いきなり飛びかかってきた虫が確かこんな姿をしていた。
 赤い目を光らせる、いくつもの黒い個体。雨が交じった風に触角を揺らす巨大な虫。
「待っていたぞ、災いを抱える忌まわしき者共め」
 先頭の1匹だけは2本の後ろ足だけで立っていた。よく見るとそれは着ぐるみで、赤い目があるはずの位置に頬がこけた中年男の顔があった。4本の腕には1つずつ、薄汚れた水鉄砲のような物を握っている。銃口が向いている先に目を向けると、ティオ達のすぐ脇に、壁際の機材にもたれかかるようにして倒れるレナードの姿があった。
「あっ……こんな所にいたんだ」
 全身が黒っぽく汚れていて、ぴくりとも動かず雨に打たれている。彼を捜しに来たサマンサが気絶していなければ、こんな所で泥遊びなんて、と怒りをぶつけていたことだろう。
「……やっぱ来やがったか……」
「え?」
「気をつけろ、あいつは別に強いってわけじゃなさそうだけど……何かヤバそうな目をしてる」
 意識を取り戻したレナードがゆっくりと起き上がった。彼はハンカチで汚れた顔をぬぐおうと駆け寄ったレイの好意をさえぎると、手先をひらひらと動かしてみせた。粘り気を持った灰色の流動体が指にまとわりついている。
 それを彼に浴びせたと見られる二足歩行の生物が、自信に満ちた声でティオ達を挑発してきた。どうやら彼は群れのリーダーらしい。
「どうした? そいつの有様を見ておじけづいたか? この前は大事な部下を投げ飛ばしてくれたと聞いたが、意外に弱そうだな、お前」
「……知り合い?」
 親友と先輩、そしてチェリーにまで同じ疑問の視線を向けられたティオは、即座に首を横に振った。
「あの喋ってる奴は知らないし……後ろのザコを倒したのも僕じゃなくてリゲルなんだけど」
「そうか。お前があいつの言ってた仇討ちに直接関係ないんだったら、俺が先に倒しても問題なかったんだ。……惜しい事したな」
(僕達が来る前に倒すつもりだったんだ……?)
 舌打ちを聞いたティオがその意志を悟った頃には、副会長は既に前へ出ていた。素早い動きで怪物まで約10メートルの距離を一気に詰め、左足で深く踏み込んだ直後に右足のあった位置からうなりが生じる。次の瞬間、靴のつま先が怪物の手から水鉄砲の1つをもぎ取っていた。
「ちっ……まあいい、あと3つは残っているからな」
 3本の水鉄砲の照準が、妖精の隣にいる子供に向けられた。
 引き金を引くと泥の塊が勢いよく打ち出され、長い射程距離をものともせずティオに襲いかかった。ほぼ同時にザコ呼ばわりされた生き物も動き出す。
 どろどろした謎の流動体と虫の体当たり、両方よけるにはどうしたらいいかと一瞬迷ったために動くのが遅れたティオは、結局両方を一度に浴びてしまった。
「しまった……何も見えない……っ」
 目に覆い被さるように貼りついた泥を払おうとするが、、制服の袖を汚しただけだった。しかも勢いよく飛び込んできた虫は見かけより重く、のしかかられた時の衝撃はすさまじいものだった。息をするだけで苦しく、余計に体力を削られる。
「くるしいの? くるしいの? ……おめめ、どこ?」
 チェリーの声が聞こえる。彼女をかばって泥を浴びたレイも、まだ自由に動けるらしい。今は敵の下敷きになったティオを助けようと、虫の触角をつかんで引っ張っている。
 一方でレナードは妖精とその仲間を横目に見つつ、両腕を振り回して水鉄砲を全部叩き落とした。
(あー……同じ方法でやられてる……でも俺のときは2匹掛かりだったのに、今さら手加減のつもりか?)
 彼は泥だけでなく雨も浴び続けているが、そんなことは全く気にかけていない。目の前にいる怪物を退治することに専念している。それは他の生徒が襲われないようにするためでもあるし、彼自身の雪辱の試みでもあった。
(こんな所で負けてられるか!)
 何度目かの打撃が背中の硬い殻に跳ね返される。まるで鉄の塊を殴っているような感じだった。周囲にゾロゾロと集まってくる虫のどれにも、自分の攻撃は通用しそうにない。
 このまま押しつぶされるのか? そうはさせない。
 顔を上げると、二手に分かれた群れのもう一方がチェリーを追いつめているのが目に入った。背後には屋上の空間を囲む金網。空高く飛べば逃げることは出来るが、パニックに陥っている妖精にそんな事を思いつく余裕はなかった。
「みゅ……みゅ、みゅう……」
 音もなく降る雨の中に、すすり泣く声が聞こえる。正面にはぎらぎら光る無数の目。ティオは「僕のことはいいから逃げろ」と言っただけで助けに来てくれない。ここでいくら泣いても状況は変わりそうにない、と悟りかけたその時だった。
 彼女の体に──正確には、背中に生やした羽に──異変が起きた。
 根元に生じた淡い光が少しずつ広がり、先端までを完全に覆う。幻想的な美しさを持つ光の羽。視界をさえぎられていない者達は、しばしその光景に見とれていた。
 一人だけ異変を知らないティオは、体の上に乗っている虫を追い払う方法を思いついたらしい。固い体を押し返していた右手を突然離す。虫はバランスを崩してわずかによろけた。
<フレアキャノン!!>
 右手の指輪に真紅の光が宿り、ティオが呪文を唱えるとそこに火炎球が出現した。前が見えないので当てずっぽうに投げた熱の塊は、虫の頭部を焦がして空に消えた。獲物を押さえつけるより、自分の身を守ることが優先。虫は本能に素直に従って逃げ出した。
「ああ、苦しかった……みんなは? チェリーは無事?」
 起き上がったティオは圧迫されていた腹をさすり、近くにいるはずのレイに声をかけた。レイは光を発する妖精に目を奪われていて、少し経ってからようやく話しかけられたことに気づいた。
「一応、無事だよ。それより今は……」
 レイはティオに自分が見ているものを説明しようとしたが、出しかけた言葉より大きな声が2人の耳に同時に届いた。
「撤収! 下手に逆らったら“災い”に巻き込まれて全滅だぞ!」
突然の退却命令。虫たちはその言葉を期待していたらしく、我先にと金網をよじ登ってその向こうへ消えてしまった。部下に交じって逃げ出すリーダーの姿は何だか情けなかった。


 「本当にこんなのでいいのかな……」
 ルークは階段を1段ずつ登りながら、先生から聞きだした言葉の数々を頭の中で反芻(はんすう)していた。
 生徒会の仕事を放り出した副会長を何故追わなかったのか。止めなかったのか。問い詰めた結果出てきたのは先生自身が敵の変装、つまり偽者ということだった。
(グランマからもらった薬、効いたかな……うまく僕のこと忘れてくれてるといいんだけど)
 ティオ達をおびき出すために現れた偽者に、折角なので屋上にいる仲間の弱点をくまなく聞き出し、彼の祖母が作った“記憶を消す薬”を与えてから逃がしてやった。
 次にとった行動は、もちろん屋上へ向かうこと。ただし取り調べで得た情報に従い、お湯が入ったやかんを両手に持っている。
「やっと着いた……おっと、危ない」
 階段を登り切った直後にサマンサの足でつまずきそうになり、慌てて体勢を立て直してから外へ出た。予想通り。ティオは顔に貼りついた泥をはがそうと躍起になっていたが、状況はほとんど改善されていなかった。
「だいじょぶ? べたべた?」
 チェリーの小さな手も灰色に汚れている。ルークは「べたべた」する物体で楽しそうに遊ぶ彼女を無視し、まっすぐティオの正面まで来た。そしてやかんを傾け、中身を頭に浴びせてやった。
「………………!!」
 あまりの熱さに思わず硬直するティオ。その顔に付いた流動体が熱せられると次第に溶けていき、彼はやっと目を開けられるようになった。
「取れた……」
「これでもう大丈夫だね。良かった、さっきの人が言ってたのは嘘じゃなかったんだ」
「?」
 情報の出所を告げることなく、ルークは黒マントをひるがえして去っていった。やかんを返してこないといけないからとは言い残したが、何か別の思惑があったとも取れる、複雑な表情だった。
 一方、ルークに蹴飛ばされたことで目を覚ましたサマンサは、レナードの姿を目に留めるなりものすごい剣幕で詰め寄った。
「解ってます!? こんな所で遊んでいる場合ではないんですよ!」
「まあまあ、そんな怒るなよ、今度ちゃんと埋め合わせはするから」
「今度ではなく、今お願いしたいんです。人を待たせているという自覚を持ってください」
「今? そんなの無理に決まってんだろ。この格好で仕事しろって言うの?」
 汚れきった服を指差し、今日は帰ると主張するレナード。副会長として責任を持てと言うサマンサ。2人とも、一歩も譲らない。
「わたくしには議論している暇もないんです、さあ、戻りますよ」
「……そうだな、今度、お前の好きなアレをおごってやる。それでいいか?」
「本当ですか? ……って、そんなことでごまかさないでください!」
 サマンサは一瞬の隙をついて逃げ出したレナードを慌てて追いかけた。言葉では怒っているように聞こえるが、彼女の口元はゆるんでいる。少しだけ嬉しそうだった。


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